前回は「「今川家の一角」の運命しか見えなかった松平元康〜戦国最強の「甲相駿三国同盟」・磐石の体制を強固に固めた今川家〜」の話でした。

抜群の政治力と軍事力を持った僧侶・太原雪斎:駿河へ行った元康

徳川家康の人生を考えるときに、極めて重要な人物が太原雪斎です。
太原崇孚とも呼ばれる雪斎は、元々は臨済宗の僧侶でありながら、今川家の政治と軍事に関わりました。
ここで「関わりました」という表現をしましたが、一時は「今川家を主導した」のが雪斎でした。
名前 | 生年 |
太原 雪斎(崇孚) | 1496年 |
今川 義元 | 1519年 |
徳川 家康(松平 元康) | 1543年 |
家康の47歳年上であり、義元の23歳年上であった太原雪斎。
1520年代、つまり雪斎が20代から30になる頃に、雪斎は今川義元に初めてあったと伝わります。

臨済宗の僧侶、
太原雪斎でございます。
この頃、まだまだ小学校低学年だったと思われる義元にあった雪斎は、



今川家は大変な家柄であり、
駿河や遠江を治める責任があります・・・



最近は、今川家もお家騒動が
続いておりますので・・・



拙僧が後継の義元様を
教えて差し上げましょう。



よろしく
お願いします!
後の雪斎の活躍を考えると、「今川家の要請」もあったでしょうが、



私こそ、今川家の後継を
教育するのに適しています!
雪斎自ら、義元の教育を受け持つように「働きかけた」と考えます。


そして、太原雪斎に小さい頃から師叔した義元は、



雪斎は、教養があるだけでなく、
政治力も抜群だ!
抜群の政治力で、今川家の切り盛りを助けた雪斎を信頼するようになりました。



織田信秀が
西三河に侵攻してきたので・・・



拙僧が今川軍を率いて
織田を叩き潰してきましょう!



よしっ、雪斎よ、
任せたぞ!
そして、太原雪斎は、当時軍事能力がピカイチであった織田信秀を破り、三河安祥城を陥落させました。
そして、この時、織田信秀の長男・信広(信長の異母兄)を捕らえた雪斎。



信広と三河国衆の
跡取り、松平元康殿を交換しよう!



松平元康で
ございます・・・
そして、当時「織田の人質」だった元康は、「今川の人質」となり、駿河に向かうことになりました。
いわば、「元康と今川を結びつけた」のが雪斎でした。
太原雪斎から政治と軍事を学んだ松平元康:人質生活の最大の恩恵


そして、抜群の政治力と軍事力を有する武将でありながら、「僧侶であること」を常に意識していた雪斎。



拙僧は、
今川家の政治と軍事を任されている・・・



いわば、拙僧は武将であるが、
何といっても、僧侶なのだ・・・
信秀を破り、三河安祥城を陥落させて、松平元康を駿河に連れ帰った雪斎。
1549年のことであり、元康は7歳(数え年、以下同)で、雪斎は54歳でした。
当時の発想では、「いつ死んでもおかしくない」年齢になった雪斎は、



おお、三河の松平の
跡取り殿は、なかなか利発そうだの・・・



政治と軍事に忙しいが、
私が僧侶として、しっかり元康殿を教えようか・・・
おそらく、「若い」というより「幼い」元康を見て、「何かを感じた」のでしょう。



元康殿、拙僧が
教えて使わそう・・・



はい、
お願いします。
元康の若い頃の「今川家の人質生活」に関しては、諸説あります。
「人質」でありながら、今川義元の姪を妻にもらうなど、「それなりの対応であった」説が有力です。
仮に「それなりの対応」だったとしても、人質は人質であり、



この元康は、
織田の人質から今川の人質か・・・
小さいながら、元康は「自分の立場」をよく理解していたでしょう。
その「人質生活」において、



今日は、この書物を
読みましょう。



はい、
読みます。



この節の意味はだな、
〜ということであり・・・
「名僧から学ぶ」ことは「人生の骨格」を作ることに繋がります。
そして、「名僧であり名将であった」太原雪斎から、幼い頃に薫陶を受けた元康。



なるほど、
こういうことなのか・・・
まだ小学生から中学生くらいの頃に、雪斎に「学問を叩き込まれる」形になった元康。
政治と軍事の大家であった雪斎から学ぶこと。
それは、同時に「政治と軍事のエッセンス」を学ぶことになりました。
人質生活が続いていたにも関わらず、「人生最大の光」を得ることが出来た元康。
この時点で、元康の運は極めて強く、



雪斎様、
もっともっと教えてください。



おお、どんどん
教えて差し上げましょう。
雪斎もまた楽しみながら、「政治と軍事のエッセンス」を授けたのでしょう。
後の天下人・松平元康の人生の骨格は、最高の形で作られつつありました。
次回は上記リンクです。