前回は「自ら家臣の能力と忠誠心を見極めた織田信長〜新参者ばかりの織田四天王・家臣を譜代でガッチリ固めた武田信玄・鎌倉以来の守護の血〜」の話でした。

多数の大勢力の中の中規模大名・織田家:信秀の際立った軍事能力

大名と家臣団の能力、国力などによって、大幅に勢力図が変わった戦国時代。
日本の歴史において、これほど急速に勢力図が変化する時代は他にありません。

我が織田家が
大きく力をつけるのだ!



我が武田家こそが、
守護出身の「正統派」なのだ!



我が毛利は、国人出身だが、
守護大名の大内を倒したぞ!



我が長尾家は守護代出身で、
関東管領上杉氏を継いだ!
様々な大名家が登場し、鎬を削った戦国時代。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
島津義弘 | 1535年 |
羽柴(豊臣)秀吉 | 1537年 |
徳川家康 | 1542年 |
そして、事実上の天下人となった織田信長は、並いる大名の中では比較的若手です。
守護・守護代・国衆(地侍)出身 | 大名 |
守護 | 武田家・大友家・島津家・今川家・大内家 |
守護代 | 長尾家(上杉家)・朝倉家 |
国衆(地侍) | 三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家) |
「守護代の重臣」の家柄だった織田家は、信長が家督を継いだ時に、15万石程度だったと思われます。



ここから、我が織田が
周囲を席巻してくれるわ!


信長が家督を継いだ頃は、織田家の勢力は「中程度の勢力」の一つでしかありませんでした。
この頃の織田家の国力に関しては、商業力など加味して、「ある程度だった」という評価もあります。
一方で、1555年頃は、三好家を筆頭に、大内家、大友家、武田家、北条家など大勢力が多数いました。





皆の者、
この信秀に続くのだ!
極めて優れた武将であった織田信秀は、様々な優れた能力を持っていました。
信秀の特徴は卓越した軍事能力であり、「合戦に強かった」ので、多くの支持が集まりました。



むむ・・・
ところが、まだ基盤が不安定な状況のまま、1551年に42歳(数え年、以下同)で頓死してしまった信秀。
信長には、異母兄・信広がいましたが、信秀は信長を可愛がり「織田家当主」となった信長。



私が織田家を
継ぐのだ!
若き日から卓越した軍事能力を誇示した織田信長:信虎追放劇と晴信





我が弟・信行(信勝)との
対立を克服し・・・



我が織田家の力を
まとめ上げて、守護代・織田大和守を倒した!
1534年生まれの信長は、「大名の子」と言えども不安定な状況で1551年に18歳で家督を継ぎました。
この頃は、「若くして家督を継ぐ」傾向が強い時代でしたが、信長はかなり早いです。



ワシは1521年に名門・武田家の
嫡男として生まれて・・・



1541年、21歳の時に
父・信虎を追放して、当主となった!
武田晴信(信玄)が「父を追放する」と言う異例のプロセスを経て家督を継いだのは、信長の3年後でした。





おのれ・・・
父親を追放するとは・・・
この「父信虎追放劇」には、諸説ありますが、「晴信が主導した」とは到底思えません。
織田家同様、ゴタゴタした武田家もまた内紛が絶えず、諸勢力を統合したのが信虎でした。
この点では、武田家の家臣団にとっては、「とても頼りになる存在」だったはずの信虎。
「信虎が残虐だった」などの諸説もありますが、どうも「後付け」の可能性が濃厚です。





武田信虎様を補佐して、
武田家統一に大きく貢献した・・・



だが、信虎様は強くなりすぎて、
我らの立場が弱くなった・・・



ここは、晴信様に継いでもらい、
我らの影響力を高めて、武田を盛り立てよう!
1494年生まれの信虎に対して、1489年生まれ(諸説あり)の板垣信方。
いかに、信虎の方が「守護代武田家の嫡流」で目上としても、「5歳の年齢差」は大きいです。
おそらく、武田信虎の甲斐統一戦において最も大きな貢献をした信方は、信虎の兄貴分だったでしょう。
甲斐統一後に「増長した」信虎を追放して、「武田家再編成」を目論んだのが板垣・甘利でした。



この晴信が武田家当主に
就任する!



板垣信方と甘利虎泰は
両職(りょうしき)に任命する!



はは〜、
お任せを!
そして、信虎追放劇の主導権を握った板垣信方と甘利虎泰は、武田家の最高職「両職」に就任。
このプロセスから、「父より年上の板垣信方」によって、ある程度「管理された立場」が晴信でした。



私には、様々な
味方がいるが・・・



私自らが先陣を切って、
世を切り開いてゆくのだ!
この「比較的安定した」立場であった若き武田晴信と比較すると、信長の立場は全然違いました。
「自ら安定させよう」と死力を尽くして、織田家の家中をまとめ、諸勢力を倒した信長。
18歳から、合戦に次ぐ合戦で、生まれ持った軍事能力に磨きがかかってゆきました。
どんなに才能に恵まれていても、「磨きをかける」ことが才能を開花させるためには必要です。
この点で、若き頃から「不安定極まりない状況で苦労した」織田信長は、自然と会得していたでしょう。
「合戦を繰り返すことで、自己の軍事能力に磨きがかかってゆく成長」を。