若き日から卓越した軍事能力を誇示した織田信長〜多数の大勢力の中の中規模大名織田家・信秀の際立った軍事能力・信虎追放劇と晴信〜|織田信長15・人物像・エピソード

前回は「自ら家臣の能力と忠誠心を見極めた織田信長〜新参者ばかりの織田四天王・家臣を譜代でガッチリ固めた武田信玄・鎌倉以来の守護の血〜」の話でした。

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戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

多数の大勢力の中の中規模大名・織田家:信秀の際立った軍事能力

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左上から時計回りに、戦国大名 武田信玄、織田信長、毛利元就、上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

大名と家臣団の能力、国力などによって、大幅に勢力図が変わった戦国時代。

日本の歴史において、これほど急速に勢力図が変化する時代は他にありません。

織田信長

我が織田家が
大きく力をつけるのだ!

武田信玄

我が武田家こそが、
守護出身の「正統派」なのだ!

毛利元就

我が毛利は、国人出身だが、
守護大名の大内を倒したぞ!

上杉謙信

我が長尾家は守護代出身で、
関東管領上杉氏を継いだ!

様々な大名家が登場し、鎬を削った戦国時代。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
島津義弘1535年
羽柴(豊臣)秀吉1537年
徳川家康1542年
戦国大名の生年

そして、事実上の天下人となった織田信長は、並いる大名の中では比較的若手です。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家・大内家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家
国衆(地侍)三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

「守護代の重臣」の家柄だった織田家は、信長が家督を継いだ時に、15万石程度だったと思われます。

織田信長

ここから、我が織田が
周囲を席巻してくれるわ!

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1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

信長が家督を継いだ頃は、織田家の勢力は「中程度の勢力」の一つでしかありませんでした。

この頃の織田家の国力に関しては、商業力など加味して、「ある程度だった」という評価もあります。

一方で、1555年頃は、三好家を筆頭に、大内家、大友家、武田家、北条家など大勢力が多数いました。

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小大名 織田信秀(Wikipedia)
織田信秀

皆の者、
この信秀に続くのだ!

極めて優れた武将であった織田信秀は、様々な優れた能力を持っていました。

信秀の特徴は卓越した軍事能力であり、「合戦に強かった」ので、多くの支持が集まりました。

織田信秀

むむ・・・

ところが、まだ基盤が不安定な状況のまま、1551年に42歳(数え年、以下同)で頓死してしまった信秀。

信長には、異母兄・信広がいましたが、信秀は信長を可愛がり「織田家当主」となった信長。

織田信長

私が織田家を
継ぐのだ!

若き日から卓越した軍事能力を誇示した織田信長:信虎追放劇と晴信

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1556-61年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)
織田信長

我が弟・信行(信勝)との
対立を克服し・・・

織田信長

我が織田家の力を
まとめ上げて、守護代・織田大和守を倒した!

1534年生まれの信長は、「大名の子」と言えども不安定な状況で1551年に18歳で家督を継ぎました。

この頃は、「若くして家督を継ぐ」傾向が強い時代でしたが、信長はかなり早いです。

武田信玄

ワシは1521年に名門・武田家の
嫡男として生まれて・・・

武田信玄

1541年、21歳の時に
父・信虎を追放して、当主となった!

武田晴信(信玄)が「父を追放する」と言う異例のプロセスを経て家督を継いだのは、信長の3年後でした。

v
守護大名 武田信虎(Wikipedia)
武田信虎

おのれ・・・
父親を追放するとは・・・

この「父信虎追放劇」には、諸説ありますが、「晴信が主導した」とは到底思えません。

織田家同様、ゴタゴタした武田家もまた内紛が絶えず、諸勢力を統合したのが信虎でした。

この点では、武田家の家臣団にとっては、「とても頼りになる存在」だったはずの信虎。

「信虎が残虐だった」などの諸説もありますが、どうも「後付け」の可能性が濃厚です。

New Historical Voyage
武田家重臣 板垣信方(Wikipedia)
板垣信方

武田信虎様を補佐して、
武田家統一に大きく貢献した・・・

板垣信方

だが、信虎様は強くなりすぎて、
我らの立場が弱くなった・・・

板垣信方

ここは、晴信様に継いでもらい、
我らの影響力を高めて、武田を盛り立てよう!

1494年生まれの信虎に対して、1489年生まれ(諸説あり)の板垣信方。

いかに、信虎の方が「守護代武田家の嫡流」で目上としても、「5歳の年齢差」は大きいです。

おそらく、武田信虎の甲斐統一戦において最も大きな貢献をした信方は、信虎の兄貴分だったでしょう。

甲斐統一後に「増長した」信虎を追放して、「武田家再編成」を目論んだのが板垣・甘利でした。

武田信玄

この晴信が武田家当主に
就任する!

武田信玄

板垣信方と甘利虎泰は
両職(りょうしき)に任命する!

板垣信方

はは〜、
お任せを!

そして、信虎追放劇の主導権を握った板垣信方と甘利虎泰は、武田家の最高職「両職」に就任。

このプロセスから、「父より年上の板垣信方」によって、ある程度「管理された立場」が晴信でした。

織田信長

私には、様々な
味方がいるが・・・

織田信長

私自らが先陣を切って、
世を切り開いてゆくのだ!

この「比較的安定した」立場であった若き武田晴信と比較すると、信長の立場は全然違いました。

「自ら安定させよう」と死力を尽くして、織田家の家中をまとめ、諸勢力を倒した信長。

18歳から、合戦に次ぐ合戦で、生まれ持った軍事能力に磨きがかかってゆきました。

どんなに才能に恵まれていても、「磨きをかける」ことが才能を開花させるためには必要です。

この点で、若き頃から「不安定極まりない状況で苦労した」織田信長は、自然と会得していたでしょう。

「合戦を繰り返すことで、自己の軍事能力に磨きがかかってゆく成長」を。

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