前回は「天下統一後の信長の国家像「織田家のかたち」〜日本の中枢と天皇を押さえた「圧倒的存在」の織田家・織田家と九州四国〜|本能寺の変21・謀叛の理由・エピソード・戦国時代の終焉」の話でした。
一気に東に領土が拡大した織田家
日本の中心である近畿地方を、ほぼ全て制圧していた織田家。
本能寺の変が勃発した1582年3月には、東の武田家を滅ぼし北条家の従属が確たる姿になりました。
徳川家康に駿河を与え、尾張・美濃からグーッと勢力圏を大きく伸ばした織田家。
石高としては、武田家旧領130万石ほどアップです。
この内、駿河を徳川家に、そして武田を裏切った穴山梅雪の旧領安堵を引くと、
我が織田家の石高は
100万石ほど増加した!
実収が100万石程度アップした織田家。
石高では大きな増進ですが、商業による経済力を考えると織田の力の増加は限定的です。
現実としては、「織田家の対抗馬の最有力」だった武田家が滅亡した事実は大きいです。
そして、面積として「織田の領土が急拡大」した事実。
朝廷に無理難題を押し付けてきた信長。
それに対して、正親町天皇は「信長の将軍就任」を拒否していたと言われています。
信長の影響力が
絶大なのは分かる。
だが、平氏を名乗る信長を
征夷大将軍には出来ん!
征夷大将軍は
源氏でなければ!
「武家政権のトップは征夷大将軍」という前例を作った「元祖源氏」の源頼朝。
名前からして「源氏であることは明らか」で、対して、織田家は「源氏か平氏か」は家系によります。
とはいえ、家系等はでっちあげることが可能で、「源氏か平氏か」は信長次第でもありました。
「源平交代」の思想から、
私が征夷大将軍就任がふさわしい。
これを拒否し続けた正親町天皇は、
太政大臣では
どうだろうか?
正親町天皇が、
征夷大将軍が
足利でないならば・・・
こう考える本命がいました。
超正統派・武田家討滅戦:「清和源氏嫡流+守護」武田の影響力
まだ武田も
おるしな。
出来星大名であった織田家とは、家柄において比較にならないほど高かった武田家。
守護代の織田家の「三人の家老」の一つだった信長の織田家。
対して、武田家は代々守護の家柄であり、清和源氏の流れを汲みます。
そして、源義光を始流とする甲斐源氏の宗家だった武田家。
本当は、世を治めるのは、
武田家の方が良いのだが・・・
名君として名高い武田信玄が亡くなりましたが、武田の後継者・四郎勝頼が健在でした。
長篠の戦いで大打撃を被った武田家(上記リンク)でしたが、まだまだ力は強かったのです。
そして、なんといっても「甲斐源氏の宗家」である武田家。
武田信玄以来の武名が轟いていました。
信玄亡き後、「ピンチヒッター的立場」であり「当主ではない」立場だった武田勝頼。
武田の力を
天下に知らしめる!
愚将と言われがちですが、戦闘能力はかなり高く、武田の家中をよくまとめたのが勝頼でした。
そして、勝頼の代に最大版図となった武田家。
武田の力が
強すぎる・・・
あまりに猛烈な武田家の力に、徳川も北条も肝を冷やしたのでした。
ここで、すでに「織田の力が武田を圧倒している」状況で、信長は「奥の手」を打ちました。
武田勝頼を
朝敵として下さい!
あの武田を・・・
源氏直流の超名家の武田を・・・
嫌、とは
言わせませんぞ!
うむ・・・
わかった・・・
そして「朝敵」となった武田勝頼。
この効果は絶大でした。
武田勝頼様が、
朝敵となったらしい・・・
もう武田家も
終わりか・・・
軍事力・影響力が落ちていた武田家に、「とどめの一撃」となった「朝敵」指定。
多くの家臣が裏切り、中には勝頼の親族である穴山信君たちまで寝返りました。
なぜ、
みんな私を裏切る・・・
「戦国最強軍団」とも言われる武田家を、1582年に割とあっさり討滅した信長。
あの武田が・・・
まさか・・・
こんなに短期間に、
あっさりと滅ぼされるとは・・・
武田家の有力家臣の裏切りが多数発生した、武田討滅戦。
残念、
無念だ・・・
長い年月の間、武田信玄に頭を悩まされつづけてきた信長本人にとっても、
こんなに簡単に
武田を潰せるとは・・・
このように感じたはずであり、「短期間での武田滅亡」に最も驚いたのは、信長自身だったかもしれません。
織田信長が見つめていた日本国の将来:現将軍・足利義昭との決着
武田を滅ぼした織田家に対して、正親町天皇は、
信長に将軍になってもらうのも、
やむをえん。
ついに
将軍か!
・・・・・
日本=織田幕府的支配を
どうするか?
を考えていたであろう信長。
まずは、朝廷との関係が最優先でした。
宿老・重臣とは言え、家臣に対しては信長は「命令すれば」終わりです。
それまでに、数多くの家臣に背かれてきた信長。
天下統一後に謀反することは、家臣側が滅亡するのは明らかなので、考えられなかったでしょう。
宿老たち含め
抜本的な国替をするか・・・
「宿老は遠方に飛ばされ、織田一族・近習たちが近畿一帯の国を領する」可能性も十分にありました。
そして、すでに「こじれていた朝廷との関係」をどうするか?
もう一つ、信長は考えるべきことがありました。
ほとんど権力がないと思われるものの、まだ将軍であった足利義昭。
毛利家に保護されていた足利義昭。
毛利輝元を副将軍とし、備後の鞆にいて「幕府のような組織」を継続していました。
「鞆幕府」とも称される「義昭の組織」は「幕府という名称が適切か」という議論があります。
いずれにしても、「幕府っぽい組織」がまだ残存し、未だ「現職征夷大将軍であった」足利義昭。
義昭を追放したが、
全国統一後は、どうするか?
その「鞆幕府」との関係もまた大事であり、信長が考えるべき決定すべきことは山積みでした。
「うやむやだった」義昭との決着をつけるべき時期が近づいていました。
次回は上記リンクです。