前回は「越後を拠点とし続けた「関東管領」上杉政虎〜越後守護代と関東管領・繰り返す関東侵攻と謙信の越山・強力な武力x中世的権威xカリスマ的軍神・失われた関東制圧のチャンス〜」の話でした。
「長子相続」の不文律を背に越後統一へ
越後守護代だった長尾家から、関東の超名門・関東管領家である上杉家を継いだ長尾景虎。
後世、実利的な織田信長や武田信玄と比較すると「野心なき正義の武将」と形容される景虎。
その景虎が「当時どのように権威に対して考えていたのか」を考えてみます。
景虎が春日山城に入城し、正式に守護代長尾家を相続したのは、1548年です。
この時、景虎はわずか19歳でした。
越後国は、揚北衆はじめ反乱分子が国内に散っており、難治の国でした。
最初は景虎の父 為景から家督をついだ、景虎の兄・晴景。
ところが、立て続けに勃発する国内の反乱を押さえきれず、
私では
無理だ・・・
弟・景虎よ。
あとは任せた・・・
お任せ下さい!
兄上!
景虎(のちの謙信)が越後守護代となった経緯は、このような複雑なものでした。
普通ならば、「長男が相続」するのが普通であり鉄則であった戦国時代。
若い頃「うつけ」と呼ばれた長男・信長に対する周囲の視線は非常に厳しいものでした。
長男の信長様では
織田家は終わり・・・
ここは、次男で行儀が良い
信行様が織田家を次ぐのがベストでは?
このような声が圧倒的な中、
黙っていろ!
信長が優れた人物であることは、ワシが分かっている!
周囲の「家臣の声」を封殺した父・信秀でしたが、
うむ・・・
無念だ・・・
42歳の若さで卒中で急逝します。
その後、幾多の戦いを経て、信長は織田家を正式に継ぎました。
私が父・信秀を継ぐ
織田家の当主!
これは、若き信長が非凡であったのが大きな理由ですが、「長男」であることも大きな力でした。
実権なき新将軍・足利義輝
家督をついだ1548年は、ようやく北方の揚北衆を従えました。
景虎なんかに
従えるかよ!
ところが、従兄弟の長尾政景が反抗している状況でした。
その中、
押せ、
押せ!
若き景虎は自ら陣頭に立って戦いを乗り切り、1551年頃にようやく越後国内統一に至ります。
私が
越後守護代の長尾景虎だ!
景虎が越後守護代となる2年前の1546年、6歳年上の足利義輝が第十三代将軍に就任します。
応仁の乱以後、京都は戦乱の世にあり大混乱でした。
義輝が将軍に就任するも、実権を握っていたのは管領 細川晴元でした。
私には
実権がない・・・
そして、細川晴元に対抗する存在だったのが三好長慶です。
この頃、三好長慶は兄弟たちの尽力や松永久秀の力もあり、猛烈に力をつけてきた頃でした。
野心なき正義の武将・上杉謙信の実像:足利将軍家を守る決意
後に将軍義輝を、殺害に追い込んだと言われる松永久秀(諸説あり)。
素性が全く定かではなく、完全な成り上がり者と言われます。
その点では、羽柴秀吉と「素性定かでない双璧」とも言える存在の松永。
戦国時代という乱世だからこそ、松永のような人物が「のし上がれた」とも言えます。
当時、足利将軍家の権威は落ちており、将軍義輝は三好長慶に攻め込まれて逃げ出す有様でした。
いやはや・・・
危なかった・・・
管領 細川晴元と三好長慶の戦いに翻弄され続ける、将軍足利義輝。
義輝は一時的に、京を脱出して近江朽木谷に逃れて、亡命生活を強いられます。
後に、織田家と浅井・朝倉家が戦い、信長が辛くも退却した金ヶ崎退却戦。(上記リンク)
この時、信長に同行していた松永久秀が、朽木谷の領主 朽木元綱を仲間にして信長の退却を助けます。
我が身は
不安定で、常に危険の中にある・・・
いつ戦死してもおかしくない状況にあった、足利将軍家。
この頃、1553年に長尾景虎は上洛します。
よしっ!
上洛だ!
足利家を
お守りするのだ!
次回は上記リンクです。