前回は「一躍織田家重臣になった羽柴秀吉〜驚愕した柴田と佐久間・合戦で超強力な軍事力発揮した中世の「民衆パワー」・明智光秀と徳川家康と共同軍〜|」の話でした。
金ヶ崎で見せつけた「鮮やか過ぎる采配」
金ヶ崎の退却戦で、鮮やかな采配を振るい、見事に朝倉・浅井連合軍を撃退した秀吉。
「鮮やかな采配」どころか、金ヶ崎で「鮮やか過ぎる采配」を見せつけた羽柴秀吉。
私は、調略だけが
得意なのではない!
権六(柴田)ほどではないが、
野戦もこなせるのだ!
そして、秀吉は軍事面に大きな自信を持つに至りました。
軍事と調略を制覇した
私は、戦国最強よ!
内心、「戦国最強の武将」であることを自負するに至った秀吉。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
林秀貞 | 1513年 |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
佐久間信盛 | 1528年 |
明智光秀 | 1528年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
まだまだ織田家には
立場も年齢も上の重臣たちが沢山いるが・・・
そのうち
全員抜き去ってやるぜ!
大いなる野望を胸に秘めていた秀吉は、「織田家随一となること」を明確に意識し始めました。
なんと言っても、
俺が信長様の生命を救ったのだ!
猿は調略に合戦にと
かなり優れているが・・・
合戦での突破力は、
ワシの方が遥かに上だ!
猿は軍事も強いから、
今後下で働いてもらおうか・・・
この時、織田の軍事の二大柱だった柴田勝家と佐久間信盛。
まさか、二人とも「秀吉に抜かれる」とは思いもしなかったのでした。
柴田勝家に至っては「秀吉と直接合戦をして敗北し、自刃に追い込まれる」立場になります。
こんなことは、勝家は「夢にも思ってなかった」でしょう。
強力な軍事力と経済力を有していた朝倉家
この後、「姉川の戦い」などを経て、信長によって滅亡させられる朝倉義景率いる朝倉家。
金ヶ崎の戦いでは、織田軍が圧倒的劣勢に立つことになり、
信長が
退却するか・・・
織田軍に大打撃を与え、ひょっとすると「信長を消せる」大チャンスが朝倉家にやってきました。
どうも、織田軍の
殿軍は大軍のようだな・・・
殿、織田に
痛撃与えましょうぞ!
ところが、当主であった朝倉義景は「やる気が感じられない」姿勢でした。
まあ、それほど
無理せんでも・・・
わざわざ、追うほどのことは
あるまい・・・
殿、ここで
織田に打撃を与えておかねば・・・
そもそも、家柄から「織田家を格下に見ていた」朝倉義景。
ここまで打撃を受けたら、
信長めも、懲りただろう・・・
信長は、
もはや我が朝倉を攻めはしまい・・・
この義景の「甘い観測」は「甘い」では済まず、痛恨の打撃となって返ってくることになります。
近い将来に「自身が自害せざるを得ない」状況となるとは、夢にも思っていない義景でした。
朝倉義景の無能さ・優柔不断さから朝倉家に対する評価は、かなり手厳しいです。
実際には当時の朝倉家は、90万石程度の経済力と北陸の強兵が大勢いる強敵でした。
敦賀などの北陸の海路の流通路を押さえていて、強力な流通経済力も持っていました。
京からも近く「小京都」と呼ばれたほど大繁栄していたのが、拠点の一乗谷でした。
一乗谷遺跡を訪問した話を、上記リンクでご紹介しています。
浅井・朝倉で120万石を超える経済力があり、北陸・近江兵は強兵だったのでした。
その中、なんとか織田家の殿軍を勤め上げた秀吉。
敵地からの退却は
大変な苦難であった。
実は、
結構危なかった!
殿軍を見事こなすために、「伏兵」という「大勢の偽装羽柴軍」をおおいに活用しました。
「民衆パワー」を合戦に最大限活かした羽柴秀吉
信長から預かっている「織田家の正規軍」も多数いた羽柴軍。
羽柴殿・・・
拙者も加勢しましょう!
明智殿!
有難い!
羽柴殿、
我が軍も加勢いたしますぞ!
徳川殿!
有難い!
明智光秀と徳川家康が「殿軍に協力した」説もあります。
実際は一部は事実でしょうが、多くは脚色されているのが現実だと考えます。
現実的には、摂津の池田長正軍が「軍勢の数では主力であった」と言われる金ヶ崎合戦。
そして、秀吉の協力者には蜂須賀小六らが率いる川並衆なども大勢いました。
実質的には、傭兵などの「民衆」に近い軍団だったのでしょう。
それらの多くの傭兵部隊に金銭を約束し、働かせたのであろうと考えます。
働き者には、
恩賞をはずむぞ!
その「伏兵」軍団には傭兵だけではなく、金銭目的の勇敢な百姓もいました。
そして、率先して旗や幟を振る役割を、果たしたと考えます。
我が軍が大軍であるように、
見せるのだ!
なるほど!
面白いな!
そういう作戦は、
俺たち得意だぜ!
「民衆が国の根源であり、民衆が国をつくる」ことを理解していたのは、秀吉だけではありません。
当然、信長も信玄も重々わかっていたことでした。
ところが、「民衆のパワーを活かそう」と考えたのは、当時は秀吉以外にはいなかったのでした。
善政で有名な北条氏康。
氏康は、飢饉の際などに徳政令や減税を実施します。
民衆が、他国へ行って
しまわないようにするのだ!
民衆たちが北条領内に留まるように、大きな配慮をしました。
民衆こそが、
国の根本!
民衆を大事にした北条家。
それでも、基本的には民衆は「武家が管理し、徴税する対象」であったのです。
その民衆の力を最もよく知っていたのが、秀吉だったのでした。
民衆は、働いて
税金を納めてくれるだけではない!
軍事力にも
なるのだ!
この点で、羽柴秀吉は「民衆を最も理解し、最も活かした」人物でした。
次回は上記リンクです。