前回は「諸国を流浪して大名たちを「つぶさに観察」した羽柴秀吉〜清洲城塀の修理奉行で見せた機転・藤堂高虎との相違点・拡大する蜂須賀小六たちとの活動〜」の話でした。
「守るべきもの」がない秀吉:メリット活かして諸国流浪
若い頃、というより幼少の頃から諸国流浪した羽柴秀吉。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
織田信長 | 1534年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
信長には早くから仕え始め、1554年頃、18歳(数え年)の時から織田家に仕え始めました。
身分が低い、と言うよりも流民に近い存在であった秀吉は、そのデメリットを最大限活かしました。
身分が低い武士でも農民でも、ある程度は土着であり、土地や家など「守るべきもの」があります。
逆に「守るべきもの」がない、ほとんどなかった秀吉は、諸国を行商して歩き回る中で、
蜂須賀殿、
藤吉郎です・・・
ああ、藤吉郎か・・・
なんだ?
当時、「藤吉郎」と名乗っていた秀吉。
「木下藤吉郎」がフルネームですが、これは織田家の中堅将校となった頃です。
おそらく、苗字はこの頃は不要で、単に「藤吉郎」だったでしょう。
最近、遠江で
行商してきたが・・・
今川の勢いは
なかなかだが、キレがないな・・・
まあな、今川は
大勢力で身分は最高ランクだが・・・
なんと言っても、
お公家さんだからな・・・
俺たちとは
「水と油」よ・・・
確かに今川は
俺たちと「水と油」と言うのは適切だ・・・
俺は、俺と「水と水」である
信長様しかいないな!
このように、諸国を歩き回って蜂須賀などの「違う世界の人物」たちと触れ合った秀吉。
当時、最も日本の国の根本を知り尽くしたのが秀吉でした。
金ヶ崎の戦いで殿軍で大奮戦した羽柴秀吉
少し時代が先に行き、有名な金ヶ崎の戦いの殿軍の話です。
この時は、秀吉が自ら殿軍を買って出た話となっています。
そして、光秀や家康(諸説あり)も協力して、辛くも退却した話となっています。
なんとか
逃げ切った・・・
危ない
ところだった・・・
光秀殿、
ご協力感謝いたす・・・
明智殿が助力して
くれたからこそ、殿軍務まりましたぞ!
木下殿の、浅井・朝倉の追撃戦の采配、
見事でござった!
退却戦において、秀吉は用兵巧みに戦い、浅井・朝倉軍を退けました。
あの木下藤吉郎という男の采配は、
なかなかのもの・・・
調略中心だった羽柴秀吉は、非常に優れた軍事的才覚を見せます。
柴田勝家などから軽んじられていた秀吉は、ここで一気に男を上げました。
中世の「民衆パワー」蜂須賀正勝たちの断続的協力
猿よ!
よくぞ殿を務め上げた!
余が無事退却できたのも、猿の
奮戦のおかげだ!
はっ!
有難き幸せ!
猿め!
なかなかやる!
私は
調略だけではない!
軍事能力にも
長けているのだ!
この時、すでに竹中重治が秀吉の参謀役となっていました。
いかに竹中重治の軍略が長けていて、秀吉の統率能力が高くても、限界がありました。
当時の羽柴家・秀吉軍は、それほど強固な存在ではなかったのです。
まだ織田家で長い歴史のない羽柴秀吉の郎党は、それほど秀吉に忠誠心もない状況です。
その中、「絶体絶命」の退却戦を命を懸けて戦う義理はないです。
俺には、
様々な傭兵たちが協力してくれるのだ!
退却戦では秀吉直轄の織田家正規軍よりも、傭兵の力の方が総合力としては強力だったかもしれません。
次回は上記リンクです。