前回は「明智光秀の新拠点・亀山城〜京都の隣国丹波一国を領する意味と近畿管領・本拠地を次々移転した織田信長・三度の織田家大移動・本拠地移転を「考えもしなかった」信玄や謙信〜」でした。
鉄砲隊の代名詞「鉄砲の明智」:鉄砲の名手だった明智光秀
政治力や知謀が抜群であるだけでなく、軍事能力も非常に高かった明智光秀。
多少の誇張がありますが「鉄砲の明智」と呼ばれ、織田家においては「鉄砲隊の代名詞」でもありました。
素性が定かではなく、織田家・足利家の前に朝倉家に寄宿していた説が有力な明智光秀。
この「明智光秀が、かつて朝倉家にいた」というのは、一つの説であり、伝承に近い話でもあります。
いずれにしても、どこで身につけたのか不明ながら、自らが「鉄砲の名手」であった光秀。
私が鉄砲を撃てば、
多くを的に当てることが出来ます!
軍司令官クラスであった光秀は、軍を采配する際は、「全体を見る」ことが最も重要です。
その為、鉄砲隊を指揮する際には「どのように鉄砲隊を配備するか」を指揮する能力が重要でした。
織田家の長年の宿老で「甲賀出身」とも言われる滝川一益もまた、鉄砲の第一人者でした。
いずれも「鉄砲隊の指揮」に長けていたのでしょうが、「自身も鉄砲が上手に使える」ことは大事でした。
それは、「鉄砲隊を構成する軍勢の立場」に自分がなれるからです。
私は、鉄砲の名手だから、
鉄砲隊の軍勢の全てが分かるのだ!
この「鉄砲隊の全てを把握していた」武将であった明智光秀は、極めて貴重な存在でした。
それは、鉄砲が広まっていた九州や紀伊などの地域を除けば、「ごく一握り」の武将のみが有する能力でした。
羽柴秀吉と明智光秀の「最強コンビ」
本能寺の変直前に、信長は光秀に「秀吉の援軍」を命じました。
光秀よ、
中国に向かい、猿と毛利を潰せ!
ははっ!
お任せを!
この「秀吉の援軍」に関しては諸説あります。
筆者は「秀吉の指揮下」ではなく「信長の代理=軍監」であったと考えます。
俺は鉄砲を撃つことは
出来ないが・・・
諜報力と調略では
織田随一だ!
この秀吉と光秀を組ませれば、毛利攻略は早めに進みそうです。
猿と
キンカン頭が組むか・・・
それは、
面白そうよのう・・・
ある意味、戦国時代では、これ以上のコンビは存在せず「最強コンビ」でした。
丹波は山が多いので、黒井城・八上城よりも亀山城のほうが出撃しやすい土地柄です。
それでも、やはり光秀を前線に行かせるよりも、京都周辺にいて欲しかったのでしょう。
光秀が信長から暴言を浴びせられた・殴られたなどの説は、羽柴秀吉あたりが後に作った嘘と考えます。
実際は、信長は光秀を最初から最後まで重用していて、大事にしていたのでしょう。
そして、信長の期待に大いに応え、懸命に働いた光秀でした。
軍事に政治に、織田家の全ての分野において。
織田信長と明智光秀の最先端築城術:安土城と亀山城
私は、
ただの石ころだった・・・
信長様のおかげで、
大名となったのだ!
坂本城及び街を、丁寧に作り上げた建築的センスを持つ光秀。
そのデザインセンスを活かして、光秀は亀山城及び街づくりでも本領発揮します。
京・山城との
関係が深い、歴史ある国・丹波・・・
この丹波の地に、
これまでにない城を築くのだ・・・
光秀の精魂尽くした「城と街が一体となった」亀山城。
実に優雅なデザイン・設計です。
信長も新たな安土城築城の際は、安土城と城下町の関係は非常に良く考えていました。
余の城は、
権威の象徴だけではない・・・
光秀の「山国の水城」というコンセプトは今見ても新鮮味があり、当時は大変斬新でした。
光秀の
「山国の水城」亀山城・・・
なかなか
面白いのう・・・
こういう秀吉や勝家にはない、光秀ならではのセンスを「信長は愛していた」のでしょう。
次回は上記リンクです。