長すぎた大日本帝国憲法発布までの十六年間〜木戸と伊藤の意を発した明治天皇・萩の乱に触れたがらない伊藤博文・一年で終わった士族反乱〜|伊藤公直話30・エピソード

前回は「「松下村塾」最年長の前原一誠〜「萩の乱」語ろうとしない伊藤博文・1876年10月末連発した士族反乱・「神風連」「秋月」と長州「萩の乱」〜」の話でした。

目次

木戸と伊藤の意を発した明治天皇:萩の乱に触れたがらない伊藤博文

New Historical Voyage
萩の乱(Wikipedia)

1876年から1877年、明治政府が震撼する士族の反乱が連発しました。

反乱勃発時期反乱名称反乱の首領
1876年10月24日神風連の乱敬神党
1876年10月27日秋月の乱秋月党
1876年10月28日萩の乱前原 一誠
1877年1月29日西南戦争西郷 隆盛
1876年末以降の士族反乱

後世の視点から見て、西南戦争以外は「小規模」に終わった士族の反乱。

上の反乱勃発時期を見ると、「神風連」「秋月」「萩」とほぼ連日勃発しました。

これは、当然ながら「双方で連絡を取っていて、同時蜂起した」のでした。

ここで、「同時蜂起」した士族の反乱で意外だったのは、「神風連」が一日で鎮圧されたことでした。

New Historical Voyage
元参議 前原一誠(Wikipedia)
前原一誠

松陰先生の
思いをもう一度!

前原一誠

新政府の連中の政治など、
松陰先生が望んだものではないわ!

そして、後世あまり語られることがない「萩の乱」は、「長州の中心地・萩」で勃発した反乱でした。

New Historical Voyage
小松綠「伊藤公直話」(新歴史紀行)

萩の乱に関して、伊藤博文は「後世の回顧」である「伊藤公直話」であまり語っていません。

むしろ、「神風連」に関して「反乱勃発」に触れた後に、

伊藤博文

イギリスでは、
主権の議論はあまり言わなかったが、

伊藤博文

ドイツなどでは、
よほど明らかになっていた。

伊藤博文

現にブルンチュリー・スタイン・グナイストらの
論も出ていた。

「主権の話」に繋げ、海外の様々な人物の話をした伊藤博文。

伊藤博文

ともかくも予の先輩として仰ぐ
木戸公の如き、大久保公の如き、

伊藤博文

漸時、憲法政治にしようという論を
もっていたことは言うまでもない。

伊藤博文

明治八年
四月十四日に、

御勅諚:明治八年四月十四日

朕即位の初、首として群臣を会し、五事を以て神明に誓い、国是を定め、万民保全の道を求む、幸いに祖宗の霊と群臣の力とに頼り、以て今日の小康を得たり。

顧に中興日浅く、内治の事当に振作更張すべきもの少しとせず。

朕今誓文の意を拡充し、茲に元老院を設け、以て立法の源を広め、大審院を置き、以て審判の権を強くし、また地方官を招集し、以て民情を通じ、公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、汝衆庶と共に其慶に頼らんと欲す。

汝衆庶或は茲に泥み故に憤るることなく、又或は進むに軽く為すに急なることなく、其れ能く朕が旨を体して翼賛する所あれ。

伊藤博文

との御勅定が
あった。

この時の明治天皇の御勅定は、まさに木戸と伊藤の意図そのままでした。

長すぎた大日本帝国憲法発布までの十六年間:一年で終わった士族反乱

新歴史紀行
明治天皇(Wikipedia)

明治天皇が明治八年に発した御勅諚では、

明治天皇

元老院を設け、
以て立法の源を広め、

明治天皇

大審院を置き、
以て審判の権を強くし、

明治天皇

また地方官を招集し、
以て民情を通じ、

元老院、大審院、地方官招集と続きます。

伊藤博文の木戸・大久保調停案

一、元老院設立

二、大審院設立

三、地方官会議設立

四、内閣分離:輔翼と行政

そして、これは正に、伊藤博文が、「木戸を政府に戻すための調停案」そのままでした。

おそらく、明治政府内部で「完全に折り合っていた」調停案。

この中で、最も重要な三点を、明治天皇はわざわざ御勅諚で明言しました。

木戸孝允

元老院、大審院、地方官会議を
天皇が御勅諚で発せられた。

これは、大久保利通、伊藤博文が、木戸孝允に「大改革を保証」する意図があったと思われます。

伊藤博文

木戸公が主に献替したもので、
あまり急進に走ってはいかぬと言うので、

伊藤博文

漸進主義で立憲の基礎を立つる
という勅諚を日本国民に下し賜ったのである。

さらに、伊藤博文は、木戸孝允が「献替した」として、木戸孝允に華を持たせました。

この頃、大久保利通、伊藤博文たちが、いかに木戸孝允に気を遣っていたか、が分かります。

伊藤博文

漸進主義は木戸公の
持論であった。

伊藤博文

大久保公は、万事木戸公の驥尾について
やろうと言われたのであるから、

伊藤博文

政府をあげて
漸進主義と認めてよろしい。

とにかく「木戸中心の明治政府」であったことを、強く、繰り返し主張する伊藤博文。

伊藤博文

即ち、それが天皇陛下の御思召と
なって出たのだ。

伊藤博文

ところで、今日になって
考えてみると、

伊藤博文

それから、十六年を費やして
憲法は発布された。

伊藤博文

十六年間の漸進主義は果たして
日であったかという事は、

伊藤博文

能く判断して
貰わなければならぬ。

伊藤博文

予は先輩のとった態度が
頗る当たっていたと思う。

この当時の明治政府の体制、状況を考えると、「漸進主義」は正解だったと言って良いでしょう。

ただし、大日本帝国憲法発布までの十六年という長すぎる期間。

この「十六年」は、歴史上語られることが少ないですが、やはり「長すぎる」と考えます。

この点は、伊藤博文自身が感じていたことであり、「判断して貰う」と明言していました。

明治十年に西南戦争が勃発して、さらに木戸孝允が病死してしまいました。

このこともまた、「憲法発布までに時間がかかった」理由です。

反乱勃発時期反乱名称反乱の首領
1876年10月24日神風連の乱敬神党
1876年10月27日秋月の乱秋月党
1876年10月28日萩の乱前原 一誠
1877年1月29日西南戦争西郷 隆盛
1876年末以降の士族反乱

ただし、西南戦争は、1877年9月24日に終了したので、士族の反乱は一年ほどでした。

このことを考えると、「反乱による憲法発布の遅延」もまた一年ほどです。

すると、やはり、大日本帝国憲法発布までの期間は「長すぎた」と考えて良いでしょう。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次