織田信長の「跡追い自害」決行した武士たち〜慕う家臣が多数いた信長・突然「消された」織田信長信忠父子・明智軍の強化急いだ斎藤利三〜|本能寺の変15・信長公記22

前回は「信長の信忠への大いなる期待〜信長小姓より多い信忠小姓・信忠近侍たちを「張良と樊噲」と礼賛した牛一・町屋から信忠お供へ〜」の話でした。

目次

突然「消された」織田信長・信忠父子

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上から反時計回りに、明智光秀、織田信長、織田信忠(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)
信長公記

すでに御殿は火をかけられ、
近くまで燃えてきた。

信長公記

信長は、敵に最期の姿を見せては
ならぬと思ったのか・・・

信長公記

御殿の奥深くへ入り、
内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。

「戦国の覇王」織田信長は、本能寺で切腹しました。

本能寺と同時に、織田信忠が立て籠った二条御所を攻撃していた明智軍。

信長公記

ついに敵は御所に突入し、
建物に火を放った。

信長公記

信忠は、

織田信忠

私が腹を切ったら、縁の板を引きはがし、
遺体を床下へ入れて隠せ。

信長公記

と言い、解釈は
鎌田新介に命じた。

織田家の正式後継者であり、事実上の「織田家皇太子」だった織田信忠までも切腹に追い込まれました。

ここで注目すべきは、「建物に火を放った」です。

信長・信忠父子の「確実な死」を確認する必要があった光秀。

ここで、火をかけて焼死体となってしまっては、確認のしようがなくなってしまいます。

この「建物に火を放った」明智軍の意図は不明です。

前代未聞の規模の巨大謀反に対し、将兵も「いきりたっていた」のかもしれません。

明智軍の強化急いだ斎藤利三

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信長公記(太田牛一著、中川太古訳、新歴史紀行)

これで、本能寺の変は終わりましたが、信長公記では周辺の様々な話を記録しています。

信長公記

先年、安藤守就に
落ち度があって追放された。

信長公記

その時、安藤の家来に
松野平介という者がいた。

信長公記

武勇に優れ、才知ある者と聞いて、
信長は松野を召し抱え、相応の所領を与えた。

信長公記

松野は面目を
施したのであった。

信長公記

この度は、松野平介は遠方にいたので、
戦いが済んでから妙顕寺へ駆けつけてきた。

信長公記

明智方の斎藤利三は、
年来の知り合いだったので、

信長公記

斎藤の方から
妙顕寺に使いを出し、

新歴史紀行
明智家重臣 斎藤利三(Wikipedia)
斎藤利三

早いうちに出頭して、
明智殿に挨拶しなさい。

斎藤利三

何も遠慮されることは
ないでしょう。

信長公記

と言って
やった。

斎藤利三は、旧知の松野に対して「明智に加われ」と声を掛けたのでした。

これは、「松野に対する温情」もあるでしょう。

その一方で、斎藤利三が「明智軍強化を急いでいた」ことが最大の理由と考えます。

織田信長の「跡追い自害」決行した武士たち:慕う家臣が多数いた信長

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京都(新歴史紀行)

「本能寺」の時点では、確かに「一度は天下を取った」かのようであった明智家。

その明智家の重臣にして、諸国に名高い斎藤利三からの直接の「仕官の勧誘」。

おそらく、斎藤利三は、松野平介が「勧誘に飛びつく」と考えたと思われます。

信長公記

しかし、松野は信長に召し抱えられた
時の仔細を・・・

信長公記

寺僧たちに細々と
話して聞かせ、

松野平介

ありがたくも過分の知行を
頂きながら、御用の時に参陣できなかった。

松野平介

その上なお敵に降参して、
明智を主君として、

松野平介

敬わなければならぬのは
無念である。

信長公記

と言って、斎藤の元へ
手紙を書き置き、

信長公記

信長の跡を追って、
切腹した。

信長公記

本当に、「道義に比べれば命は軽い」というのは、
このようなことを言うのである。

安藤守就の家臣であり、「連座する」はずだった松野平介を、信長は召し抱えました。

そして、その高恩を感じていた松野は、「本能寺」直後に後追い自害しました。

信長公記

また、土方次郎兵衛という者は、
代々の御家人であった。

信長公記

信長が自害した時、状況の
柳原にいて時を過ごし、

信長公記

間に
合わなかった。

信長公記

信長が自害した、
と聞いて、

土方次郎兵衛

その場に参上して
お供をせず、残念だ。

土方次郎兵衛

お跡を追って、
切腹しよう。

信長公記

と言って、知人の元へ
手紙を書き送り、

信長公記

召し使っている下人たちに
武具・刀・衣装を肩身として与え、

信長公記

立派に切腹を
した。

信長公記

名誉なこと、
いうまでもない。

信長公記を著した太田牛一は、このように「信長の跡追い自害の武士」二名を記録に残しました。

信長の家臣であり、「信長のための人生記=信長記」を、わざわざ著した太田牛一。

そもそもが、「織田信長に完全に寄り添った」姿勢でありました。

そのため、これらの話は「信長を持ち上げるため」の話であるのは事実です。

それでは、これらの話は「どこまで真実なのか」が重要です。

信長を美化するために、「一部創作した」可能性は否定できません。

その一方で、太田牛一自身が、

太田牛一

故意に削除したものはなく、
創作もしていない・・・

太田牛一

これが偽りであれば、
神罰を受けるであろう・・・

太田牛一自身がこう記しているように、創作らしきものは少なく、「事実」がほとんどと思われます。

すると、これらの「信長の跡追い自害」は、事実・史実であったと考えます。

「本能寺」後に、盛んに流布された、織田信長の様々な虚像。

その一つが、「織田信長による光秀足蹴」です。

この「織田信長による光秀足蹴」が「光秀のでっち上げ」であることを、フロイスが指摘しました。

フロイスが「日本史」で記録に残した「光秀足蹴」に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

とにかく、「織田家の世」を生み出す最終段階にいた信長。

その実像は、実は相応に温かみがある人物であったと考えます。

そして、「信長を慕う家臣が大勢いた」のが事実でした。

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