前回は「肖像画が一切ない宇和島初代藩主・伊達秀宗〜おとなしめの秀宗の甲冑・「四方のうち二方が海に面した」宇和島城・古風な伝統的日本建築〜」の話でした。
「秀」の字を与えた秀吉の「生涯豊臣」の思い:惜しくない「羽柴」

ド派手なキャラに加え、ド派手は甲冑・兜だった豊臣秀吉。
そして、戦国末期に登場した若者筆頭であった伊達政宗もまた強烈な個性を持っていました。

戦国時代が好きな人の中でも、ファンが極めて多い伊達政宗の甲冑は、比較的シンプルでした。

そして、長男でありながら、庶出であったため仙台・伊達藩を継げなかった伊達秀宗。
豊臣秀吉は全国の大名に旧姓である「羽柴」を与え、ほとんどみんなが「羽柴になった」状況でした。

豊臣秀吉皆に私の旧姓・羽柴を
与えよう!
そのため、多くの諸大名は、正式な文書において、本来の名前ではなく「羽柴侍従」などとなりました。
この「旧姓・羽柴の配布」は、秀吉なりの「豊臣政権一体感」の戦略でしたが、



長年名乗っていた
「羽柴」だが・・・



羽柴は、柴田勝家と
丹羽長秀から「借りた」字だ・・・


「羽柴」の「柴」は、秀吉が若かった頃に、織田の戦力筆頭格だった柴田勝家から借りました。


羽柴の「羽」は、同様に、織田家全般の筆頭格だった丹羽長秀から、借りました。
ここで「借りた」というのは、秀吉が「一方的に名乗った」からです。
そして、「本能寺」後に柴田勝家を滅ぼし、丹羽長秀を「間接的に裏切った」秀吉。



「羽柴」は惜しくない・・・
特に愛着は、ない・・・
その秀吉にとって「羽柴」は、別に名残惜しくなく、



「豊臣」こそが
我が名なのだ!
このように「豊臣」の色で日本を変えようとしたのでしょう。
そして、「豊臣」姓も限定した大名に与えましたが、



私が木下藤吉郎から
変名して、ずっと名乗っている「秀吉」・・・



この「秀吉」は大事だから、
安易には、この字はやれんぞ・・・
「秀吉」の「秀」も「吉」も良い字ですが、やはり「秀」の方が良いです。
ここで、豊臣秀吉は「豊臣の一族になってほしい限定した人物」にのみ、



お前には、秀吉の「秀」の
字をやろう・・・



きっと、きっと、我が豊臣家に
生涯尽くすのだぞ・・・
このように「豊臣への生涯の忠誠」を求めたのでした。
その一人が、初代宇和島藩主・伊達秀宗でした。
端正な宇和島城天守閣:「一目も二目も置かざるを得ない」伊達政宗


| 名前 | 生年 |
| 毛利元就 | 1497年 |
| 北条氏康 | 1515年 |
| 今川義元 | 1519年 |
| 武田信玄 | 1521年 |
| 長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
| 織田信長 | 1534年 |
| 島津義弘 | 1535年 |
| 羽柴秀吉 | 1537年 |
| 長宗我部元親 | 1539年 |
| 徳川家康 | 1543年 |
| 伊達政宗 | 1567年 |
キラ星の如く多数の、極めて優れた戦国大名たちを生み出した、日本の戦国時代。
上の著名戦国大名の中には、「元々守護や守護代に連なる家」も多いです。
伊達政宗もまた、相応の家柄でしたが、「守護代の下」程度の格でした。
そして、「圧倒的に若い」にも関わらず、際立った軍事・政治能力を有した伊達政宗。
豊臣秀吉も徳川家康も、伊達政宗には「一目も二目も置いた」存在でした。
むしろ、「一目も二目も置かざるを得ない」存在だった伊達政宗。
一時「二百万石近い」とも言われる大領土を支配した政宗は、秀吉によって60万石程度になりました。
その後、「関ヶ原」では、家康から出された「百万石のお墨付き」を反故にされた政宗。



おのれ・・・
家康めが・・・
この「反故」に関しては、「関ヶ原」当時、伊達政宗が様々策謀、蠢動したことが「理由」とされます。


その一方で、この「政宗の策謀・蠢動」は、上杉家への対抗策の一環と考えます。
「最上と組んで、上杉に当たった」伊達政宗でしたが、元々は「犬猿の仲」以上の最上義光。
最上義光もまた優れた武将でしたが、この人物は、ちょっと信用出来ない武将でした。
そのため、事実上は、「上杉家120万石に、伊達60万石で当たる」戦略が必要でした。



確かに、領土を広げようと
考えもしたが・・・



あの上杉家は、
総力上げて北に向かってきた・・・



それを止めた功績を
消しおって・・・


長期戦、少なくとも半年以上の戦闘を見込んでいた石田三成と上杉景勝。





出来るだけ、
短期決戦だ!



だが、北の上杉には
万全の体制が必要だ!



長期戦になった時、上杉が
江戸に攻め込んではマズい!
そして、政宗は「家康の思惑通り」に「北の守り」を固めたのでした。
時は経過し、「大坂の陣」で豊臣家を潰した後、



「関ヶ原」で反故にした
政宗の領土を少し増やしてやるか・・・
こんな家康の「百万石のお墨付き・反故」の思惑もあったでしょう。



我が長男・秀宗に
別に10万石を!



分かった。
四国・宇和島で10万石やろう・・・
ケチで有名な家康は、伊達家に、というよりも事実上は「政宗に」10万石をポンと与えました。


そして、仙台とは全く異なる温暖な宇和島に、優美な宇和島城を築いたのが宇和島伊達藩でした。


その天守閣は、コンパクトながら、端正な姿を見せ続けています。

