前回は「軍隊率いて「政府に尋問の筋あり」の真意〜大山県令の人民保護布達・川村と伊東座乗の高雄号包囲した私学校諸生・二派に分裂した薩摩〜」の話でした。
西郷隆盛「明治政府に尋問」と大山通達攻撃:ただ一人の陸軍大将

1877年2月12日、西郷隆盛は遂に薩摩軍を率いて出陣しました。
具体的な出陣の日付は諸説ありますが、1877年2月12日に以下のような決起文を発表した西郷。
拙者共事、先般御暇之上、非役ニテ帰県致候処、今政府ヘ尋問之筋之有。
不日ニ当地発程致候間、御含為此段届出候。
尤兵隊之者共随行多人数出立致候間、人民動揺致セズ様、一層御保護御依頼及候也。
明治十年二月十二日
陸軍大将 西郷隆盛
同 少将 桐野利秋
同 少将 篠原国幹
県令 大山綱良殿
薩軍の当初の人数も諸説ありますが、概ね「一万三千人ほど」が有力です。
現代では想像出来ませんが、「一万三千人の軍隊」が鹿児島から東京へ向かうことになりました。
しかも、堂々と、
西郷隆盛明治政府に
尋問の議あり!
「明治政府に尋問」を大義名分としていました。
さらに、明治六年の政変で下野した西郷でしたが、「陸軍大将のみはそのまま」でした。
これは、「大久保の配慮」の説があります。
いずれにしても、1877年当時、日本において「ただ一人の陸軍大将」であった西郷隆盛。
その「ただ一人の陸軍大将」が、一万三千もの陸軍を率いて東京に乗り込むことになりました。


この西郷決起の状況を、岩倉公実記は克明に記録しています。


この時、明らかに「西郷派」となっていた大山綱良県令もまた、同日布告を発しました。
今般陸軍大将西郷隆盛外二名政府エ尋問之筋之有。
兵隊等随行不日ニ上京之段届出候ニ付、朝廷へ届ノ上、更ニ別紙ノ通、各府県並ニ各鎮台へ通知に及ビ候就テハ、此節ニ際シ人民保護上一層注意著手ニ及ヒ候條。
篤ク其意ヲ了知シ益々安堵致ベク此旨布達候事。
明治十年二月十二日
鹿児島県令 大山綱良
とにかく、一万三千もの軍隊が、鹿児島から遥々東京へ向かうことになり、



各府県、各鎮台は、
人民の保護に尽力ください。
各府県と各鎮台に、人民保護を要請し、出来るだけ「問題が起きないように要請」した大山。
いわば、大山は西郷軍側について、「側面攻撃」をしていたのでした。
川路利良「打倒西郷+私学校撃滅プラン」:中原供述書と「川路らしい」計画


そして、私学校生徒らに捕縛された中原尚雄の口述書が公開されました。
自分儀、明治九年一月四日、少警部拝命奉職罷在リ。
同年十一月末方日ハ失念、大警視川路利良宅へへ差越候処、同人ヨリ各県ノ事情等彼此ト承リ候末、鹿児島県ニ於テ近頃種々穏ナラズ向モ之有リ。
西郷陸軍大将在県ナレハ、名義立ズニ危機ノ所為ハ之無トハ申ナカラモ、万一挙動の機ニ立至ラハ、西郷ニ対面刺違ユルヨリ外ニ仕様ハナイヨ、トノ申聞ニ随ヒ居候。
同年十二月二十四日、中警部園田長照、末廣直方、自分宅ヘ参リ、近々帰省願出度含ミト云ウモ、鹿児島県ノ動静何分世評様々ノ向キ申ス。
翌二十五日、警視庁内ニテ川路利良ヘ丁度面会ノ節、帰省ノ願書差ベシ。園田長照方ヘ集会ノ盟約ニ付、午後三時ヨリ差越候。平田才七、野間兼一、猪鹿倉保、大山綱介、菅井誠美(以下略)等々来集致シ、(中略)私学校入校ノ者ハ固ヨリ其外へ名分ノ無キ師ヲ起スハ人臣トシテ有間敷(後略)
翌二十六日午後、川路利良宅、当分明キ家ノ所ニ於テ、右人数集会ヲ期シ置キ帰省ノ願書差出候処、
即刻許可相成リ皆々参会ニ及ヒ候。
其節評議ノ次第ハ、第一私学校ノ人数ニ離間ノ策ヲ用ヒ、我方ニ人数ヲ引入レ、私学校ヲ瓦解セシメ、動揺ノ機ニ投シ、西郷ヲ暗殺致シ速ニ電報ヲ以テ東京ニ告ケ、海陸軍併セテ攻撃ニ及ヒ、私学校ノ人数ヲ皆殺シニ致候儀ヲ決定シ。
同二十七日、東京発程横浜迄差越シ、一泊。
翌二十八日午後九時、玄海丸ヘ乗船出帆ノ処、船中殊ノ外宜カラズ、諸所滞泊ニテ明治十年一月十一日、(鹿児島)県着。
夫レナリ外出等モ致ス得候共、末廣、高崎等参リ、呉候儀ハ之有。何モ前書探偵ノ件々モ果敢取ラス折柄、暗殺ノ密謀発覚致シ、終ニ御捕縛ニ相成。
右次第此度、御取調ニヨリ陸軍対象西郷隆盛ヲ川路利良カ命ヲ受ケ、容易ナラサル儀ヲ差挟ミ、且人心ヲ離間スルノ始末取企候次、今更何共恐入奉候事。
右ノ通相違申上ズ候以上
明治十年二月五日
中原尚雄
桐野ら私学校生徒が捕縛した中原尚雄の供述は、極めて詳細でした。





鹿児島県で
不穏な動きをキャッチしている。



私学校生徒が挙動に出る
可能性が高いが・・・



これに万一、西郷が一緒に
動くのであれば・・・



差し違えるほか、
ない!



とにかく、皆で鹿児島へ
潜入し、私学校生徒を離間させ・・・



西郷を暗殺の上、
海陸軍を持って、鹿児島を制圧する!
現在の警視総監である「大警視」だった川路が描いた「打倒西郷+私学校撃滅プラン」。
この「中原供述書」の真偽は、諸説あります。
その一方で、「川路の性格通り」とも言える、「打倒西郷+私学校プラン」。
いかにも「川路らしい」ですが、この「川路らしい」のは、桐野らが最も知っていました。
この点では、中原供述書は「半分は正しく、半分は私学校作成」と考えます。
いずれにしても、抜き差しならない状況に至ってしまいました。

