前回は「超一級資料のルイス・フロイス「日本史」〜「信長公記」との違い・織田信長に関する様々な記録や資料たち・一次資料と二次資料〜」の話でした。
「中位の背丈だった」信長

ルイス・フロイスの主観が思い切り入った描写が多い「日本史」。
ルイス・フロイス「日本史」は翻訳され、様々な形で出版されています。
今回は、上の「回想の信長」という「信長中心」の書籍から、信長像を探ってゆきます。

Frois彼(信長)は中くらいの
背丈で、華奢な体格であり・・・



髭は少なく、甚だ声は
快調で、極度に戦さを好み、



軍事的修練にいそしみ、
名誉心に富み・・・



正義において
厳格であった・・・


織田信長の肖像画からは、信長は「ある程度高い身長」のように思われます。
ところが、フロイスの記述によると「中くらいの背丈」のようです。
これは背が高い・体格が大きい西洋人と比較、当時の日本人と比較、のどちらかが不明です。
この「比較対象」は極めて重要なので、明確にして欲しかったです。
かなり綿密で、詳細な描写の報告書をイエズス会に提出していたフロイスなので、おそらくは、



彼(信長)は、日本人の中で中くらいの
背丈で、華奢な体格・・・
このように「同じ日本人の中で比較」と筆者は考えます。
この「中位の背丈だった」信長像だけでも、意外な印象があります。
「肩の上から話をした」織田信長が見ていた未来:既存勢力への睨み


来日の際、九州の平戸に上陸したルイス・フロイス。
当時、平戸周辺で争っていた大村純忠や有馬晴信らの戦乱に巻き込まれて、九州を脱しました。
そして、当時の首都であった京へ向かったルイス・フロイス。
当時の日本の地図は、科学技術が遥かに進んでいた欧州においても不完全なものでした。
それでも、「およその日本地図」を把握していたフロイスらは、着実に京に向かいました。
この「平戸→京」のプロセスにおいて、様々な日本人とあったフロイス。
フロイスの信長像は、続いて、



彼(信長)は自らに加えられた侮辱に
対しては懲罰せずにはおかなかった・・・



幾つかのことでは人情味と
慈愛を示した。
概ね、キリスト教に対して寛容だった信長は、「フロイスの恩人」とも言える存在でした。
それにしては、信長の人格に対して、かなり厳しい描写です。



彼の睡眠時間は短く
早朝に起床した。
「本能寺」の時も、信長が早朝に起きていた可能性が高いですが、一般的に「早起き」だった信長。



貪欲ではなく、甚だ決断を秘め、
戦術に極めて老練で、非常に性急であり・・・



激昂はするが、
平素はそうでもなかった。
一般的に「怒りやすい」イメージの信長ですが、「激昂はするが平素はそうでもない」ようです。



彼はわずかしか、または
全く家臣の忠言に従わず・・・



一堂から極めて
畏敬されていた。



余は、己自身の判断を
最優先する!
「超独断専行」の性格であった信長の性格を簡潔に記述しています。


確かに、様々な大名と比較すると、「自らの考えを貫いた」イメージが強い信長。
この「自分の考えを最優先する」信長の個性が、如実に現れた表現です。



彼は日本の全ての王侯を軽蔑し、
下僚に対するように・・・



肩の上から彼らに
話をした。
「日本の王侯」とは、当時の日本における「どの程度のレベル」を指すかが不明瞭です。
一定の地域を収めていた、小大名に対して「王侯」と呼んだのか。
「全ての」王侯を軽蔑、というのは気になります。
敵対する大大名〜小大名を、次々に撃破し、完膚なきまで潰した姿勢を指しているのか。
「肩の上から彼らに話をした。」という表現も、独特で面白いです。



私は「超上から目線」で
話すのだ!
この姿勢こそ、信長の当時の姿勢であり、「信長が見ていた未来」を明確に表しています。
既存勢力に対して、強い睨みをしていた信長。
その信長は、確かに「国家の姿」を変えようとしていました。
次回は上記リンクです。


