西南戦争の爪痕〜威風堂々とした薩摩藩士・維新の元勲の銅像・島津氏の鹿児島城と鶴丸城・徳川に真っ向勝負した島津義弘・多数の銃弾痕と戦争の現実〜|西南戦争1・エピソード

前回は「薩摩の国〜西郷隆盛・大久保利通・超薩摩ファースト・翔ぶが如く〜」の話でした。

目次

威風堂々とした薩摩藩士・維新の元勲の銅像

西郷隆盛像(新歴史紀行)


維新の偉人達の銅像が数多く存在する鹿児島市内。

大久保利通像(新歴史紀行)

西郷隆盛・大久保利通の銅像は、鹿児島市内の中心部にあります。

西郷・大久保以外にも多数の銅像がある鹿児島は、歩いているだけで「歴史の風」を感じられます。

日本全国に多数ある銅像たちの中でも、「一際、威風堂々としている」西郷・大久保の銅像。

これらの銅像を見ていると、見ている側もキリッとしたくなるほどの「見えない力」があります。

それらの銅像を拝見しながら、街中を歩いて鶴丸城へ向かいます。

島津氏の鹿児島城・鶴丸城:徳川に真っ向勝負した島津義弘

鹿児島城・鶴丸城(新歴史紀行)

この城は関ヶ原の戦い直後の1601年に、薩摩藩初代藩主 島津家久が築いた城です。

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

関ヶ原の合戦で、前代未聞の「敵中突破」を敢行した島津義弘。

西軍敗北決定後、わずか1500程度の軍勢しか率いていなかった島津義弘。

腹ば切るば、
ごわす!

一度は自刃を決断するも、甥の島津豊久に説得され、薩摩に退却を図ります。

といっても、味方の西軍は壊滅状態で、周りは東軍ばかり。

敵中突破する
ごわす!

そして、「敵中突破」という文字通り「敵軍の中を真っ直ぐ突き進んで突破して退却」をしたのでした。

「敵中突破」の際は、最初は「敵軍に突き進む」のですが、途中からは「敵に背を向けざるを得ない」状況です。

そこで、

捨奸(すてがまり)!

島津家必殺の技「捨奸」が発動されました。

そして、島津の将兵は「坐して敵に鉄砲を打ち続ける」戦法を実行しました。

何とか、
薩摩まで逃げたが・・・

戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

いよいよ、
徳川の天下だ!

島津は
取り潰す!

まだ豊臣家が安泰とはいえ、「事実上の天下人」となった家康。

その「徳川家に逆らった」島津は、当然「廃絶の対象」でした。

なぜ、我が島津が徳川に
従わなければならない?

我が島津を従わせたければ、
弓矢で来い!

関ヶ原の戦いに「1,500名ほど」という「大勢力にも関わらず、少人数で戦った」島津。

この理由は、文禄・慶長の役と島津家の有力家臣の反乱などで、疲弊していたことでした。

関ヶ原では、
お前たちに負けたかもしれんが・・・

我が島津の領土を
削るなど、もってのほか!

まだ島津の本拠地には、
多数の武士がいるのだ!

島津を
滅ぼすかないか・・・

今、島津を消しておかねば、
後に禍根を残す・・・

対して、島津家は領土を城塞化して、「合戦・戦争準備万端」となりました。

ところが、徳川家もそれほど安定感があるわけではありません。

まだ、豊臣家も
残っており、島津は超強い・・・

この時点、徳川家康と「野戦の戦闘力が互角」である数少ない人物の一人が、島津義弘でした。

そして、「家としての軍事力」はピカイチの島津。

徳川家といえども、

島津か・・・

やむを得ん。
島津の領土は削らないから、上手くやろう・・・

よかよか!
ならば、我が島津は、無闇に敵対はしない!

結果的に、この時の「後に禍根を残す」懸念が現実となったのが、明治維新でした。

そして、この「家康と揉めている間」に築城を開始した鹿児島城・鶴丸城。

築城の目的は、「島津家の防衛のため」であり、

徳川たちが攻め込んできた際に、
籠城して撃退できるような城を!

だったでしょう。

西南戦争の爪痕:多数の銃弾痕と戦争の現実

鶴丸城(新歴史紀行)

薩摩らしい、華麗さはないものの、朴訥とした力強さが感じられる雰囲気です。

城は築いた大名や、住んでいた大名の性格が如実に表れます。

ここへ来たかったのは、近くの私学校跡地の石垣に、歴史が刻まれているからです。

鶴丸城付近の石垣には、西南戦争の際の銃弾痕が残っています。

西南戦争の銃弾痕(新歴史紀行)

これらの銃弾痕は、西南戦争の末期のものでしょう。

おそらく西郷軍が北へ向かった後、敗走を続けて、薩摩に戻ってきた後の戦闘の際のものだと思います。

陸軍大将 西郷隆盛(国立国会図書館)

岩倉・大久保どんたちの
新政府に物申す!

最初は、威勢よく出陣した薩摩軍。

一時は3万名近い将兵が集まった西郷軍。

ところが、熊本鎮台(城)攻撃に失敗し、徐々に旗色が悪くなりました。

九州各地で転戦を続けた薩軍でしたが、

最後は
薩摩で・・・

薩摩に戻ってきて、新政府軍と「最期の決戦」となりました。

西南戦争の銃弾跡(新歴史紀行)

当時のまま、保存されているようです。

多数の銃弾の痕跡から、戦争の恐ろしさが感じられます。

西南戦争の銃弾跡(新歴史紀行)

西南戦争の一つの山場となった「田原坂の戦い」。

あまりに戦闘が激し過ぎて、銃弾が雨のように行き交いました。

銃弾同士が、正面同士から衝突した「かち合い弾」も出て、それが残されています。

その「田原坂」と比較すると、すでに「薩軍の敗色が濃厚」であった鹿児島での戦い。

すでに、薩軍は武器・弾薬も着きかけていました。

これらの銃弾は、ほとんどが新政府軍が発した銃弾なのでしょう。

明治維新を切り開いた原動力・薩摩。

薩摩藩出身の幕末〜明治の将星: 左上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎(Wikipedia)

その薩摩の猛烈なパワーが、感じられる場所です。

新歴史紀行

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