初めて大々的に楽市楽座を実施した織田信長〜楽市楽座を強行した斎藤道三・斎藤家の「商人の系譜」・「大義名分パワー」を最大化・足利家の中世的権威〜|織田信長8・人物像・エピソード

前回は「中世を抹殺した帝王・信長の視線〜織田家の圧倒的パワー・膨大な富と太い海外との繋がり・天皇より上の存在・信長が目論んだ「新たな地位」・天皇と朝廷より遥かに上の存在〜」の話でした。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

楽市楽座を強行した斎藤道三:斎藤家の「商人の系譜」

戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

今回は、軍事面ではなく、織田信長・織田家を経済・財政面から読み解きましょう。

「楽市楽座初め、その独創性で経済革命を起こした人物」と語られることが多い織田信長。

実際には楽市楽座は、斎藤道三などの大名が先に実施していました。

楽市楽座は、
信長よりもワシが先!

彼らは信長が楽市楽座を実施する前、既に実施していたことが分かっています。

新歴史紀行
作家 司馬 遼太郎(司馬遼太郎の戦国 朝日新聞出版)

司馬遼太郎の「国盗り物語」では「一代で商人・油屋から美濃国主にのし上がった」と描かれた道三。

その後、斎藤家と関係が深かった六角承禎(義賢)の文書によって、

どうやら、斎藤道三の美濃乗っ取りは、
一代ではなく、親子二代らしい・・・

という説が有力となっています。

「国盗り物語」は、僕が最初に読んだ司馬遼太郎作品であり、とても面白く、躍動感があります。

そして、司馬氏の膨大な研究によるものの「小説」らしく、少し偏っている傾向がある「司馬史観」。

司馬遼太郎の小説には
嘘が多すぎる!

という声もあるほどです。

この意見・見解に対して、筆者は「ある程度は、司馬氏の見方が偏っているのは事実」と考えます。

歴史学会において「司馬史観」に対する非難は、非常に根強いです。

一方で、「歴史小説」として考えたとき、司馬遼太郎の描く武将たちは生き生きとしています。

「国盗り物語」執筆時に、司馬遼太郎が「斎藤道三親子二代説」を知っていたかどうかは不明です。

それでも、小説として「生き生きとした武将」を描くには、「一代で良かった」と考えます。

現在では、「ほぼ確実」な「斎藤道三親子二代説」ですが、いずれにしても「親は商人出身」だった道三。

この時、道三の親がすでに美濃である地位を手に入れていた時も、「商人的思考」はあったでしょう。

美濃の国主の補佐役となったものの、元は「商人の系譜」でもあった斎藤家。

この「斎藤家の流れ」を考えるとき、

座というのは、
商人にとって良い面、悪い面がある・・・

座に加入している側から見れば、
良いのだが、新参者はきつい・・・

斎藤道三と同様に考えていた、戦国大名・守護大名は多く存在しましたが、

ここは、部分的にも
楽市楽座にするのが経済的メリット大だ!

と判断した、斎藤道三は座に加入していた商人たちの、

そんなことをされたら、
俺たちの特権が・・・

うるさい!
黙っていろ!

楽市楽座を強行したのでした。

蝮の道三は、
天才なのだ!

初めて大々的に楽市楽座を実施した織田信長

新歴史紀行
岐阜城:山道からの光景(新歴史紀行)

このように織田信長以前に、楽市楽座は様々な大名が実施していたのが現実です。

そのため、楽市楽座は「信長の独創」ではありません。

一方で、「大々的に楽市楽座を実施した」のは、おそらく信長が最初でしょう。

私が、楽市楽座を
大々的に実施したのだ!

政策は大々的に実施してこそ意味が大きく、影響が大きいです。

既存にあった政策を「信長なりに解釈して、大型実施」したことには大きな意義があります。

義父の斎藤道三の
楽市楽座も研究した!

そして、これは大型で実施する
のが実行力が高いと考えた!

規模も含めて考えれば「信長の独創」ではなくても、「信長の大きな功績」でしょう。

1560年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

桶狭間の戦いで、今川義元を討ち取り、独立した徳川家康と同盟した信長。

以前は、南の海を除いて、「三方を敵に囲まれていた」非常に苦しい状況だった信長。

これで、東からの
脅威は叩き潰せた!

信長は、一気に道を切り開きます。

東は家康に
任せた!

そして、まずは
稲葉山城を落とす!

美濃を制圧しなければ、
何も始まらないわ!

信長は、このように考えていたでしょう。

その美濃制圧には、かなりの時間がかかりました。

桶狭間の戦いのあった1560年から、断続的に美濃を攻撃します。

そして、1567年に美濃制圧に成功した信長。

たまたま生まれた所が良かった信長は、濃尾二カ国で100万石ほどの実力者になりました。

「大義名分パワー」を最大化:足利家の中世的権威

のちの室町幕府第十五代将軍:足利義昭(Wikipedia)

織田信長が美濃制圧に全力を尽くしていた頃に、「流浪の将軍後継者」足利義昭は、

信長よ・・・
我が足利家を救ってくれ・・・

家臣の細川藤孝などを通じて、織田家ともコンタクトをとっていました。

これは、「織田家が特別」ではなく、全国のめぼしい大名にコンタクトを取り続けていた義昭。

誰でもう良いから、
私を将軍にしてくれないか・・・

これが、足利義昭の本音だったでしょう。、

1567年の織田家勢力図(別冊歴史人 「戦国武将の全国勢力変遷地図」KKベストセラーズ)

そして、濃尾を統一して、東の徳川家康、西の浅井長政と同盟を固めた織田信長。

足利家家臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この頃、足利家家臣だった明智光秀が登場しました。

信長様に足利義昭様を報じて、
入京していただきたい!

そして、足利家を
再興して頂きたい!

うむ!
良かろう!

これで上洛する
大義名分が出来たわ!

信長は、足利義昭を奉じて入京する方針を固めました。

かつて、今川家と斎藤家という強力な敵を抱え、「周囲が敵だらけ」で多大な苦労をした信長。

東に徳川家康、西に浅井長政と同盟固め、さらに東の強敵・武田信玄とも誼を通じた信長。

これで、上洛しても
美濃と尾張は安全だ・・・

万全の体制で、足利義昭を奉じて、京へ乗り込みます。

まだまだ織田の力は、天下に覇を唱えるほど
強くはない・・・

我が織田が強くなるには、
大義名分は大事だ!

戦国大名 長尾景虎(上杉謙信)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信長の父・信秀が急死した1552年の翌年1553年に上洛した長尾景虎(上杉謙信)。

叙任のお礼を
申し上げたい!

という公式声明の元、2,000名もの大軍団を率いて上洛した若き景虎。

足利将軍家を
お守りする存在であることを、公にするのだ!

衰微したとはいえ、天皇・朝廷は抜群の権威を持っていた当時。

さらに、足利将軍家の「中世的権威」もまた健在でした。

名前生年
毛利元就1497年
北条氏康1515年
今川義元1519年
武田信玄1521年
長尾景虎(上杉謙信)1530年
織田信長1534年
戦国武将大名の生年

若き長尾景虎よりもさらに若く、信玄たちから見たら「若造」だった信長。

長尾景虎は、早い時期に
大義名分を掲げて上洛した・・・

おそらく、信長にとって「先輩」の景虎の政治手法に信長は多くを学んだでしょう。

景虎も「関東管領となって、関東を治める」という
大義名分があったからこそ、あれだけの勢力になった。

私も、あの「大義名分パワー」を見習って、
京へ乗り込むのだ!

そして「大義名分パワー」を掲げて、一気に上洛を果たした信長でした。

楽市楽座と同様に、「すでに実行されていた手法」を大々的に拡大した織田信長。

私は「大義名分パワー」を
最大化して、上洛だ!

この「既存の手法を学んで、拡大して最大化する」ことこそが、信長の天才的能力でした。

新歴史紀行

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