前回は「「攻め込むこと」のみを考えていた滝川一益〜「かつての領土」奪還に向けて士気旺盛な北条軍・結束力堅い「進むも滝川、退くも滝川」の軍勢の戦略〜」の話でした。
「撤退の超名人・織田信長ならば」と考えた滝川一益
絶体絶命の滝川軍。
現実的には、「全面撤退」も考えたでしょう。
ところが、近畿圏ならまだしも、この関東という織田家にとって「アウェーすぎる」土地。
さらに、すでに旧武田領の甲斐・信濃が動乱状況にあると見られる中、撤退のしようもありません。
上手く撤退
出来るだろうか・・・
「進むも滝川、退くも滝川」と言われた滝川一益は懊悩しました。
1570年に、越前・朝倉家に攻め込んだ際に、後方の浅井長政の裏切りにあった信長。
浅井長政が、
織田を裏切っただと・・・
そんなはずは
絶対にない!
敵の戦略だ!
惑わされるな!
う、上様!
どうやら、「浅井謀反」は事実です!
だから、それは
敵の流言だ!
上様!浅井軍は
実際に我らの背面をつこうとしています!
諜報によると、浅井長政軍は
「我が織田の腹背をつく」べく出陣しました!
そんな
馬鹿な・・・
信長を
討ち取れ!
必ず、必ず
信長を打ち取れるぞ!
前方の朝倉に後方の浅井に挟撃されては、
全滅必至!
よしっ!
逃げるぞ!
意気揚々と越前に攻め込んだ信長は、浅井家の裏切りを聞くと、飛ぶようにして退却します。
「金ヶ崎の撤退戦」殿軍を指揮した羽柴秀吉
松永久秀を含む、非常に少人数で退却した信長。
この時は敵地とは言え、織田家は「ある程度状況を把握」していました。
敵地を調査し尽くして準備万端であり、つい先日まで織田軍が進撃し続けていたからです。
殿軍を務めたのは、羽柴秀吉でした。
明智光秀や徳川家康も「退却戦に参加した」という話もありますが、定かではありません。
当時の信長・羽柴軍は、比較的危険が少ない若狭を経由して退却しました。
そして、最後尾の殿軍であった羽柴軍は「織田家の勢力範囲圏」にすぐ戻れました。
ふ〜・・・
危なかった・・・
当時はまだ浅井・浅倉が健在とは言え、織田軍は非常に大軍だったので、「数に頼める」状況でした。
無事に
退却したぞ!
後に「金ヶ崎の戦い」あるいは「金ヶ崎の撤退戦」と言われる合戦でした。
信長の金ヶ崎の撤退戦と比較しても、周囲は完全に敵地あるいは「3ヶ月前まで敵地」です。
ところが、甲斐・信濃では武田旧臣が蜂起しており、危険極まりない状況です。
しかも、退却ルートは絶対に信濃を経由しなければなりません。
長年の主・武田家を葬った滝川一益としては、猛烈な反発が予想されます。
なんと言っても、弱体化した武田勝頼にとどめを刺した張本人が、滝川一益です。
うかつに信濃など
通過できぬわ・・・
軍勢を率いて撤退しようにも、信濃で武田残党に奇襲されるのは目に見えています。
そして、撤退中は軍勢を規則正しく指揮するのは難しく、信濃はよく知らない国です。
はっはっ〜!
我が北条はフル動員して、5万の軍勢よ!
そこに出てきた、5万とも言われる大軍勢の北条軍。
そして、北条から追撃を受けたら、敗北必至でした。
幻の超仲良し「柴田勝家軍+滝川一益軍」の共同作戦
撤退したところで、
絶体絶命!
柴田が、
もう少し近くにいてくれたら・・・・・
御館の乱後に非常に弱体化した上杉家相手に、猛烈な強さを誇る柴田軍は、押しに押していたのです。
長年、超仲良しの柴田勝家と滝川一益。
猿(秀吉)
の分際で出世しおって・・・
本当に、猿は
お調子者よ!
猿=秀吉に対する評価も「完全一致」していた滝川と柴田。
「滝川一益は柴田勝家の妹を妻にしていた」という説もあります。(諸説あり)
この説は確かではありませんが、「それほど仲良し」だったのが柴田と滝川でした。
攻撃方面が近い勝家とは、よく書状で連絡を取っていました。
上杉は、
もう一息よ!
柴田軍が上杉軍を、押しまくっている連絡を受けていました。
この上杉家が・・・
もはや・・・
「押されまくっていた」上杉軍は、もはや「風前の灯」でした。
柴田軍は、
上杉の越中・魚津城を囲んでいるはずだな・・・
だが、越中はこの上野からは
遠すぎる・・・
柴田軍と我ら滝川軍が組めば、
北条など一蹴できるものの・・・
確かに、この頃の柴田軍と滝川軍を合わせれば、5万ほどの人数となります。
そして、指揮する将が「柴田勝家+滝川一益」であれば、北条家も「ものの数ではない」状況です。
柴田の援軍を頼むには、
柴田は遠すぎる・・・
どうにも
ならぬか・・・
唇をかむ一益でした。
次回は上記リンクです。