真田昌幸の離反に青ざめた滝川一益〜旧主武田勝頼を討滅した敵・北条家の宿敵だった織田家・北条家の総力を結集した北条氏政・頼みの綱の真田昌幸〜|滝川一益9・人物像・軍事能力・エピソード

前回は「滝川一益が「想定のかけらもしてなかった」本能寺の変〜北条家の撹乱作戦・滝川と北条を両天秤にかける真田昌幸・武田信玄の元で学んだ軍略〜」の話でした。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

北条家の宿敵だった織田家

戦国大名 北条氏政(Wikipedia)

そもそも、織田家に従うことは「嫌々だった」北条氏政。

信長に従って
やったのに・・・

そして、織田信長に従って、北条家も武田勝頼の討滅に参加しました。

甲相駿三国同盟(歴史人 別冊「戦国武将の全国勢力変遷地図」)

そもそも、父・北条氏康の代では武田家とは、今川家と共に三国同盟を結んでいた仲でした。

ところが、桶狭間の戦いで当主・今川義元が討死して、今川家が急速に勢力を失った状況に目をつけた信玄。

戦国大名 武田信玄(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

もはや今川家は
保たぬな・・・

今川の駿河を手に入れて、
海を手に入れる!

新歴史紀行
戦国大名 北条氏康(Wikipedia)

一方的に三国同盟破棄に踏み切った信玄に激怒したのが、氏政の父・氏康でした。

信玄め!
血迷ったか!

こうして、北条家は武田家と断交して、「敵の敵」である上杉謙信と同盟を結んだのでした。

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戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

今川義元を
討て!

そもそも、「関東の王」を目指していて、「天下」には興味が全くなかった北条家。

この意味では、「北条家としてはバッチリだった」のが甲相駿三国同盟でした。

この「北条にとってベストであった」三国同盟をブチ壊した原因を作ったのが織田信長です。

大体、信長が
今川義元殿を討たなければ・・・

北条家は、とうの昔に「関東の王」としてさらに広大な領土を持っていたでしょう。

我が北条家は
関東にもっと領土を拡大していた・・・

いわば、信長のせいで「人生設計」ならぬ「大名設計」が大きく狂わされたのが北条家でした。

我らにとって宿敵のような
信長に従ってやった・・・

ところが、武田討滅戦の頃の織田家にとっては、北条家は「どうでも良い」存在となっていました。

北条が従えば良し!
従わねば滅ぼすまで!

そのため、武田討滅戦に参加した北条家に対して、大した褒美もなく、

我が北条家が
信長めに軽く扱われた・・・

北条家にとっては「宿敵」であり、憎き相手であった信長。

そして、その信長が本能寺の変でこの世から消えて、信長の重臣であった滝川一益が北関東を支配しています。

信長の子分の滝川などに
北関東を蹂躙させぬわ!

北条氏政は、旧領奪還の固い決意を固めました。

北条家の総力を結集した北条氏政:頼みの綱の真田昌幸

新歴史紀行
1582年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

我が北条家の
総力を挙げよ!

この滝川との戦い、
決して負けるわけにはいかぬ!

ギリギリまで
動員して、一気に大軍で蹴散らすのだ!

北条家の総力を上げて、50,000人の軍勢を集めます。

これは、当時の北条家の「限界いっぱい」というよりも限度を超えたほどの大軍勢でした。

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1586-90年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

当時は概ね「4万石で1,000人」の動員換算なので、50,000人の動員は「200万石相当」となります。

のちに、北条家が勢力を拡大した後、豊臣秀吉に滅ぼされた後に徳川家康が「北条家の旧領土」を領しました。

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戦国大名 徳川家康(Wikipedia)

猿(秀吉)の命令で、
住み慣れた三河から領土を変えられたが・・・

関東255万石の
領土を持ったぞ!

この北条→徳川領と比較して、明らかに版図が小さい1582年当時の北条家。

おそらく、170〜180万石程度の領土であり、金山や大きな流通都市を持っていなかった北条家。

それにしては、50,000人の動員は「限度を超えた」動員でした。

我が北条家の
運命を賭ける!

まさに、当時の北条家の全ての力を上げて、滝川軍に襲い掛かりました。

関東管領格となった滝川一益ですが、まだ入国してまもなく、寄騎は真田昌幸など少ない状況。

そして、頼みの男でもあった真田昌幸。

戦国大名 真田昌幸(Wikipedia)

武田信玄の薫陶を長年に渡って受けてきた、真田昌幸。

情報を重視した信玄のそばに居続けた昌幸は、兼ねてから諜報部隊の強化を実施してきました。

父の真田幸隆(幸綱)は、武田信玄に支えてずっと、調略でのし上がってきました。

武田家重臣 真田幸隆(幸綱)(Wikipedia)

相手を調略するためには、相手の周辺の情報を得ることが必須です。

おそらく、真田家には幸隆以前から、強固な諜報組織があったのでしょう。

その諜報組織を、さらに信玄流にアレンジした真田昌幸。

「草の者」と呼ばれる多数の忍者・諜者集団を抱え、その諜報能力は全国屈指のレベルでした。

情報をかき集めた昌幸は、判断を下します。

これは、滝川は
保たないな・・・

それは武田信玄に若い頃から、近習として支えた真田昌幸のカンでした。

滝川が北条に
勝つことは不可能・・・

真田昌幸の離反に青ざめた滝川一益:旧主武田勝頼を討滅した敵

戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

しかも、滝川一益は総大将が織田信忠だった織田家の武田討滅軍の補佐役で、事実上の総司令官でした。

滝川とは大した縁もない上に、
旧主 武田家を潰した張本人だわ!

確かに、武田勝頼を天目山に追い込んだ張本人が、滝川一益だったのです。

ワシが援護してやる
義理はないわ!

ついに、真田は滝川一益と絶縁します。

真田は
滝川とは手を切る!

この「真田離反」の影響は、滝川にとって甚大なマイナスでした。

さらに上野周辺の小大名・国人が支援してくれません。

事実上自らのかつての領国の伊勢衆のみを率いて、滝川一益は北条家に挑みます。

一説には滝川軍18,000対北条家50,000とも言われ、平地の多い上野付近でこの兵力差は如何ともし難い軍事力の差。

神流川周辺(歴史群像シリーズ51 戦国合戦大全 下巻 学研)

この状況では、羽柴秀吉・柴田勝家・明智光秀の誰がなっても、非常に厳しい状況です。

軍事の天才であった織田信長・武田信玄であっても、勝利を得るのは難しいでしょう。

絶体絶命に陥った、滝川一益でした。

な、
なんと・・・・・

真田が
寝返ったか・・・・・

真田昌幸の離反に青ざめた滝川一益でした。

新歴史紀行

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