滝川一益が「想定のかけらもしてなかった」本能寺の変〜北条家の撹乱作戦・滝川と北条を両天秤にかける真田昌幸・武田信玄の元で学んだ軍略〜|滝川一益8・人物像・軍事能力・エピソード

前回は「プライド高き北条氏政の織田家と滝川一益への視線〜揺らぐ滝川軍の基盤・北関東の行方・頼りになる男登場・真田昌幸・真田信繁親子〜」の話でした。

滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

滝川一益が「想定のかけらもしてなかった」本能寺の変

本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

本能寺の変で、織田信長・信忠親子が自刃に追い込まれ「君主不在」となってしまった織田家。

戦国時代の当時は、裏切りや謀反は日常茶飯事のことでした。

戦国大名 織田信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

織田信長の強烈な個性によって「織田家は謀反が多かった」と言われます。

現実としては、他の家でも多発していました。

v
戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

例えば、上杉謙信は長年越後北方の揚北衆の謀反に悩まされています。

武田信玄も諸説あるものの、「長男義信の謀反計画」がありました。

このように、日本中の大名家で謀反は続発していた事態で、その状況こそが戦国時代でした。

新歴史紀行
戦国大名 松永久秀(Wikipedia)

信長なんかに
従えるかよ!

「戦国時代の梟雄」と言われる松永久秀は、信長に従った後二度謀叛を起こしています。

この松永の謀反はいずれも自身の領土である信貴山城、多聞山城を拠点にして反旗を翻しました。

このように「自己の領土で他の大名と手を組み叛逆する」のが謀反の「定型」でありました。

新歴史紀行
織田家重臣 明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

信長を
討ち取れ!

それに対して、わざわざ拠点から出陣して「主君を殺しに行った」本能寺の変は異色中の異色でした。

織田信長が一気に殺されるだけでも異常事態であるのに、後継の織田信忠までもが殺されてしまいました。

まさか・・・
こんなことが起きようとは・・・

幾多の修羅場をくぐり抜けてきた滝川一益。

「信長が死ぬ」ことの想定はあるいは多少していたかも知れません。

だが、信長様と信忠様が
一度に殺されてしまうとは・・・

このような事態を想定することが「極めて異常」でありました。

北条家の撹乱作戦

北条 氏政(Wikipedia)

関東管領格となった滝川一益ですが、その年の3月に武田家を討滅した後に、上野に入国しました。

そして、その直後である6月2日に本能寺の変が勃発しました。

まだ入国してまもなく、というよりも2月ほどしか経過していません。

事実上、「入国直後」と言っても良い状況の滝川家。

まだこちら(上野)へ来て、
二月あまり・・・

何も準備
できていないが・・・

そして、寄騎は真田昌幸など少ない状況です。

我が北条家の総力
上げれば・・・

信長のいない、
滝川など一蹴よ!

我が軍勢と真田たち
寄騎を合わせても2万あまりの軍勢か・・・

ただ、北条家は200万石ほどの領土があるので、動員力は5万以上になりそうです。

北条軍がまとめてくると、
まずい・・・

北条軍が滝川軍目指して、まとめてやってくると敵いそうもありません。

北条軍が二手、あるいはそれ以上に
分散する手立てはないか・・・

織田家で調略といえば、羽柴秀吉に軍配が上がるものの、戦場での知略では滝川一益はピカイチでした。

名前生年(一部諸説あり)
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
明智光秀1528年
織田信長1534年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家方面司令官の生年

「甲賀出身」説があるものの、出自が定かではない滝川一益は、秀吉よりも12も年上です。

我が知略で、
北条家の側背を突いて、正面から叩けぬか・・・

戦国大名 真田昌幸(Wikipedia)

ここで頼りになる「知謀の男」真田昌幸。

自分で言うのもなんだが、
私の軍略はピカイチだ・・・

小さな勢力で軍勢が少ないとはいえ、真田昌幸の軍略と知略は頼りになりそうです。

北条家の撹乱作戦を考え続ける一益でした。

滝川と北条を両天秤にかける真田昌幸:武田信玄の元で学んだ軍略

武田家家臣 真田幸隆(幸綱)(Wikipedia)

武田信玄が手こずった砥石城をあっさり調略で落とした、知謀の将 真田 幸隆(幸綱)の三男です。

我が真髄は
調略にあり!

もともと真田荘周辺を領していた真田幸隆(幸綱)は、戦国期に領土を失ってしまいました。

そして、一時は上野の長野業正の元に寄宿していた時期もありました。

晴信様に仕えて、
我が領土を取り戻す!

幸隆には非常に武勇に優れた長男・次男がいたため、当初は昌幸は武藤家へ養子に出されました。

養子に出されたが、
名門・武藤家を盛り上げるぞ!

武藤喜兵衛と名乗ります。

武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、武藤となった真田昌幸は、武田信玄の近習となり、軍略の限りを学びます。

武藤喜兵衛(真田昌幸)は、
非常に優れている!

武藤は
「我が目」と言っても良い!

その後、信玄がもう少し長生きすれば、信玄近習から侍大将となったでしょう。

そして、武田家で大活躍して、さらに武田家を躍進させたはずだった武藤喜兵衛(真田昌幸)。

ところが、武藤家を継いだ武藤喜兵衛は急遽、真田家に戻ることになりました。

武藤から真田家に戻って、
一途邁進するぞ!

武藤家をついだ真田昌幸が、「真田に戻った理由」。

長篠の戦い(図説 豊臣秀吉 柴裕之編著 戎光祥出版)

それは、武勇に優れた兄たちが「長篠の合戦で討死したため」でした。

兄が二人とも
戦死してしまった・・・

その後、一時は戦国一とも言われた武田家がどんどん凋落するのを、目の当たりにしてきた真田昌幸。

あの隆盛極めた
武田家が・・・

武田 勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武田勝頼が追い詰められた時は、自らの居城岩櫃城に勝頼を迎え入れようとしました。

我が居城岩櫃城は
難攻不落の城です!

そして武田勝頼と共に、織田軍に徹底抗戦することを申し出ていました。

ところが、外様であった真田を信用できず、身内の小山田信茂を頼った勝頼。

最後はあっさり小山田に裏切られ、天目山で自刃します。

ワシの城に来れば、
一年以上堪えたられたものを・・・・・

悔やむ昌幸。

その後、「やむを得ず」滝川にしたがっていました。

武田信玄譲りの戦国指折りの諜報力を持つ真田家。

乱破を四方八方に派遣し、情報収集します。

滝川と北条、
どちらを選ぶか・・・・・

悩む真田昌幸でした。

地元を押さえ、智将の名高い真田昌幸が
いるのは、心強い!

自分と北条が「両天秤にかけられている」とは露とも思わなかった滝川一益。

真田昌幸を信じて、真田を当てにしていたのでした。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次