前回は「滝川一益と北条氏政の睨み合い〜北条氏政の思惑・御館の乱と反武田同盟・本能寺の変と関東の王のプライド・そもそも北条領だった北関東・氏政の怨念〜」の話でした。
プライド高き北条氏政の織田家と滝川一益への視線
織田家の関東方面軍司令官滝川一益に従属していた北条家。
本能寺の変で、信長・信忠が自刃に追い込まれた事実を掴みます。
一時は関東の覇王であった北条家四代目 北条氏政。
四代目ともなると、プライドも高くなります。
関東の王は、
俺だ!
織田でも
滝川ではないわ!
しかも、織田は
消えたも同然!
織田家との断交を決断した北条氏政。
ここぞとばかりに、滝川一益と断交し、関東へ一気に勢力拡張を図ります。
そもそも上野周辺の関東北部は、30年ほど前は「北条家のものだった」のです。
その後、上杉謙信が突然関東に乱入してきたり、武田信玄が駿河に侵攻したりでゴタゴタしました。
揺らぐ滝川軍の基盤:北関東の行方
一度は関東北部を手中に入れた北条家。
北条は、
全国有数の大大名になったぞ!
実際、北条氏康の頃の北条家は、西の大友家・毛利家と同等の版図を誇りました。
つまり、当時の日本全国3位に確実に入る強力な大名であったのが北条家でした。
石高で言えば、100万石を超える強力な軍事力・経済力を有していた北条家。
この頃の織田家といえば、尾張南部をようやく押さえ、石高は15万石ほど。
商業・流通面では尾張の方が上ですが。1555年頃の北条家は「織田家の6倍ほどの軍事力を有した」存在でした。
栄華を誇っていた北条帝国でしたが、関東管領となった上杉政虎(謙信)が乗り込んできました。
関東は、我が
上杉家のものだ!
そして、上杉政虎(謙信)に関東の大部分を取られたものの、挽回していた氏康。
上杉に取られた
関東を取り返したぞ!
今度は、武田信玄と敵対しました。
一度は北条・武田・今川三国同盟を結んでいたものの勝手に破棄した信玄に激怒し、武田家と断交しました。
晴信、
許さん!
西上野に勢力を張る長野業政に手こずっていた信玄が、業政死後に上野に進出してきます。
業正さえいなければ、
上野は我が武田のものに!
そして、上野は武田に奪い取られてしまったのです。
上杉家と同盟した時期もありましたが、上杉謙信も当てにならないところも多かったのです。
嫌々、
謙信と同盟結んだが・・・・・
あいつは、
全然当てにならん!
北関東は武田・上杉・北条の三つ巴で争っているうちに、中央で織田家が尋常ならざる勢いで勢力を伸ばしていました。
いつの間にか、
北関東が織田のものになっていた感じだ・・・
北条家からすると、不思議な感覚だったでしょう。
そして、北条氏政は5万を超える大軍を大動員して、上野にいる滝川軍に迫ります。
我が北条家の
底力を見よ!
頼りになる男登場:真田昌幸・真田信繁親子
関東管領格となった滝川一益ですが、まだ入国してまもない時期で、寄騎が非常に少ない状況です。
しかも、織田家の有力武将の中で遊撃隊の役割であった期間が長かったことが問題でした。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
織田信長 | 1534年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
我が滝川軍団の
骨格は未形成だ・・・
柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉が先に軍団長となり、有力武将は彼らにつけられてしまいました。
滝川家の近親や滝川家臣団たちに
助けられてきたが・・・
我らは、拙者の才覚ひとつで
のし上がってきたようなもの・・・
柴田軍団には猛将・佐々成政がいました。
さらに佐久間盛政や前田利家までもが柴田軍団であり、滝川軍団はどうしても見劣りがします。
我が軍団の力は
権六(柴田勝家)の軍団よりも劣るな・・・・
ここで「頼りになる男」が、最近味方になっていました。
真田昌幸です。
近習として長年に渡り、武田信玄の薫陶を受け、のちに「戦国随一の知謀」といわれた真田昌幸。
さらに少し時代が後になって登場し「日本一の兵(つわもの)」と言われた真田信繁(幸村)の父。
大変な事態であり、
我が滝川の危機存亡の事態だが・・・
真田がいるのは、
心強い!
そう考える滝川一益でした。
次回は上記リンクです。