前回は「急速な出世から暗転した滝川一益〜北条家のプライド・関東の王としての自負・光る北条氏政の瞳・名将の父氏康を継ぐ者が選ぶ道〜」の話でした。
北条氏政の思惑:御館の乱と反武田同盟
上杉謙信亡き後勃発した、上杉家の後継問題は「御館の乱」という内乱に至りました。
上杉謙信の後継者として、謙信の姉の息子・景勝と養子・景虎が争いました。
実は、景虎は北条氏康の七男で北条氏政の実の弟でした。
そして、上杉家に人質同然で送られました。
「北条家からの人質」である北条三郎を見た謙信は、
北条三郎よ!
気にいったぞ!
お前に私の以前の名前、
景虎を与えよう!
あまりに北条三郎を気に入った上杉謙信は、元の自分の名である景虎を与え、上杉景虎と名乗らせました。
後から考えれば、上杉謙信のこの行為は「非常に軽率であった」でしょう。
その後、
うう・・・
むう・・・
急死してしまった謙信。
後継を決めないまま、亡くなってしまったのでした。
普通に考えれば、「謙信の身内=姉の子である景勝」が後継者となりますが、
上杉景虎様は謙信公に大変気に入られて、
「景虎」の名前を頂戴した身・・・
景虎様こそ、
謙信公の後継者に相応しい!
この声に、謙信に「関東管領職を委ねた」上杉憲政が同調しました。
実の弟・上杉景虎に対して、北条氏政は、
当然、後継者は
我が弟の上杉景虎に決まっておる!
実弟を支援しました。
氏政としては、
三郎(景虎)が上杉を継げば、
北条+上杉の強力な勢力が誕生するわ・・・
このような「北条+上杉のタッグ」という下心もあったでしょう。
ところが、ここで思わぬ人物が横槍を入れてきました。
私は、上杉景勝殿を
支援する!
武田勝頼が上杉景勝側に周り、一気に景虎側が弱くなりました。
最終的には「血で血を洗」う争いとなってしまった「上杉家後継者の闘争」。
そして、氏政の実弟・上杉景虎(北条三郎)は、
もはや・・・
もはやこれまで・・・
自刃に追い込まれたのでした。
おのれ!
武田勝頼!
我が弟の恨み、
晴らしてくれるわ!
これで、プライドの高い北条氏政は激怒して、「武田との完全なる断交」を決定しました。
そして、織田家による武田侵攻戦では、徳川と共に北条も甲斐に攻め込んだのでした。
つまり、この時点では、北条家は「織田家の従属的立場」となっていたのでした。
滝川一益と北条氏政の睨み合い:本能寺の変と関東の王のプライド
織田家の関東方面軍司令官・滝川一益に従属していた北条家。
本能寺の変で信長・信忠が自刃に追い込まれた事実を掴みます。
ここで、プライド高い北条氏政。
信長と嫡男・信忠のいない
織田など、どうでも良いわ!
関東の王は
俺だ!
織田の家臣である
滝川ではない!
織田家との断交を決断します。
ここぞとばかりに、滝川一益と断交し、北関東へ一気に勢力拡張を図ります。
そもそも北条領だった北関東:氏政の怨念
そもそも上野周辺の関東北部は30年ほど前は「北条家のものだった」のです。
その後、上杉謙信が突然関東に乱入してきたり、武田信玄が駿河に侵攻したりでゴタゴタしました。
一度は関東北部を手中に入れた北条家は、上杉家を継いだ上杉謙信に大きく領土を削られます。
その後、長野業政が西上野に勢力をはっていました。
業政に手こずっていた信玄が業政死後に上野に進出してきました。
そして、上野は武田に奪い取られてしまったのです。
一度は三国同盟を結んでいた武田・北条・今川家。
1560年の桶狭間の合戦で今川義元が討たれて今川家が凋落します。
本来、今川家を一緒に支えなければならないのに、海を目指して今川と断交した武田信玄。
この煽りを受けて、戦国時代の先駆け的存在であった北条早雲の念願の「関東制覇」がチラついた北条家。
地道に、少しずつ関東に勢力を伸ばしていった北条家でした。
北関東には「怨念のような」感情を持つ北条氏政。
もともと北関東は、
俺たち北条のものだ!
「本来自分達のものであった領土」を、上杉・武田に横取りされ、挙句の果てに織田家が乗り込んできました。
滝川、
お前は関東とは関係ない!
お前たちから、
返してもらうぜ!
大軍を率いた北条氏政は、滝川領へ一気に押し寄せてきました。
な、
なんと・・・・・
北条が
裏切っただと・・・・・
北条家よりもはるかに寄騎の少ない滝川一益は、絶体絶命となりました。
次回は上記リンクです。