五度に渡って川中島へ侵攻した武田信玄〜甲相駿三国同盟と武田家の戦略・晴信の不倶戴天の敵となった村上義清〜|武田信玄11・戦術・軍事能力・エピソード

前回は「川中島奪取に異常にこだわった武田信玄〜執拗すぎた武田の川中島侵攻・痛恨の打撃を受けた武田家・なんとか有利に持ち込んだ「川中島」〜」の話でした。

武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

五度に渡って川中島へ侵攻した武田信玄

川中島の戦い(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

五度に渡り、川中島で対峙した武田晴信(信玄)と長尾景虎(上杉謙信)。

動員数はその時によって異なりますが、概ね武田軍20,000と上杉軍13,000が出陣しました。

武田軍20,000と上杉軍13,000が、よくこの狭いエリアに滞陣できたと不思議なくらいに感じます。

5度に渡って死闘が繰り広げられた、川中島の戦い。

川中島第N次の戦い
11553
21555
31557
41561
51564
川中島の戦い年表

それぞれの年は、上の表です。

1553年から1564年にかけて、行われています。

最初に武田と上杉がぶつかった、1553年。

甲相駿三国同盟と武田家の戦略

甲相駿三国同盟(歴史人 別冊「戦国武将の全国勢力変遷地図」)

その時、武田は北条・今川と甲相駿三国同盟を結んでいました。

この図を見ると東:北条氏と南:今川氏と同盟を結んでいた武田。

残るは、武田は北か西に進出するしかありません。

美濃の斎藤家と武田家の関係は、書籍等では、あまり触れられたことがないように思います。

新歴史紀行
戦国大名 斎藤道三(Wikipedia)

この頃バリバリだった斎藤道三が、東の強敵・武田と「交渉しない」はずもなさそうです。

また、逆に、武田晴信(信玄)が、

美濃の斉藤家は
どうでも良いわ・・・

と無視したはずもないですが、両家がそれほど交渉していた形跡もなさそうです。

新歴史紀行
戦国大名 北条氏康(Wikipedia)

この頃、関東で著しく勢力を伸ばしていた北条家。

関東で最も勢力を持っていた関東管領・山内上杉家とその庶家・扇ヶ谷上杉家と鋭く対立しました。

上杉家を
叩き潰せ!

「川越の合戦」などで、上杉家を中心とする「関東旧勢力連合」に痛撃を与えた氏康。

山内上杉家当主上杉憲政は、北の強力な軍事力を持つ長尾景虎を頼りました。

このため、武田信玄の川中島侵攻は、「北条家との同盟を重視した」結果でもあります。

武田殿・・・
共に長尾を叩き潰そうぞ!

うむ・・・北条殿・・・
長尾を倒し、共に領土を広げようぞ!

のちにこの両者が「激突する」とは思わず、甲相駿三国同盟は両家にとって非常に効果的でした。

晴信の不倶戴天の敵となった村上義清

戦国大名 長尾景虎(上杉謙信)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

村上義清とは何度も戦い、死闘を続けた武田。

武田晴信を
討ち取れ!

1548年には、未曾有の激戦が武田と村上の間で繰り広げられました。

武田家の両識と呼ばれ、両翼とも言える甘利虎泰・板垣信方が戦死する大敗北となりました。

甘利・板垣が
討死だと・・・

な、
なんと・・・

さらに、1550年に村上義清と再度戦って「砥石崩れ」と言われるほどの大惨敗となりました。

2度に渡り「大惨敗」となった信玄。

これほどの
大惨敗になるとは・・・

その後、やっと村上義清を北信濃から追っ払った信玄。

義清を補足することはできず、義清は長尾景虎を頼った経緯があります。

頼られれば、
私は保護するぞ!


この経緯から、信玄としては「憎んでも憎みきれぬ」村上義清。

村上は絶対に、
完膚なきまで潰す!

義清を保護する長尾景虎にとっては、武田は「打ち破らなければならない」相手であったのでしょう。

長尾が、
村上を保護するだと!

甲相駿三国同盟による「北条家の要請」に加え、不倶戴天の敵・村上義清を追い求めた信玄。

信玄としては、この二つの大きな理由から「川中島に突き進む」しかありませんでした。

おのれ、晴信!
我らに合戦挑むか!

こうして、甲斐の虎と越後の龍が矛を交えることになりました。

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