信濃全土占領で「弾みをつけたかった」武田信玄〜武田駆逐の「強いテンション」を持っていた長尾景虎・武田家の致命傷となった「武田典厩信繁戦死」〜|武田信玄9・人物像・軍事能力・エピソード

前回は「見通しが甘かった武田信玄〜難治の国越後守護代長尾家・川中島から目と鼻の先の春日山城・未知の若者だった景虎〜」の話でした。

戦国大名武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
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武田駆逐の「強いテンション」を持っていた長尾景虎

戦国大名 長尾景虎(上杉謙信)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

越後守護代の家柄であり、「川中島も版図の一部であった」説がある長尾家。

しかも、守護代とはいえ、難治の国・越後では叛逆が続いていたため、

景虎殿、
助けてくだされ!

と村上義清が「頼み言ってきた」状況では、

よしっ!
私が武田を叩き潰して見せよう!

と景虎が応じたのは「当然の理屈」でした。

もし、ここで「助けを求めた」村上義清に対して、

信濃のことは、
我が越後に関係なし!

と景虎が突っぱねようものなら、越後の国衆たちは、

おい・・・
俺たち、長尾景虎に従っていて良いのかな?

ああ、俺たちが攻め込まれた時に、
「必ず助けてくれる」存在なのかどうか・・・

と景虎に対して、ある種の疑念を持ってしまう可能性がありました。

1542年頃の武田家領土および周辺(歴史街道2020年11月号 PHP研究所)

さらに、武田が川中島を占領した場合、長尾の本拠地の春日山城は川中島から「すぐそこ」でした。

このため、

絶対に
負けれらない!

必ず、武田を
川中島から駆逐して見せよう!

と長尾景虎には「強いテンション」を持っていたと考えられます。

信濃全土占領で「弾みをつけたかった」武田信玄

川中島の戦い(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この「絶対に負けれらない」というテンションが、武田家および信玄側にあったのかどうか。

この点は、少し疑問符がつくでしょう。

信玄にとっては川中島への侵攻は、あくまで「自領の拡大」が目的でした。

信濃全土を制圧して、
我が国・甲斐の次の武田領に!

新歴史紀行
京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

当時の「京・山城中心」の日本国家において、それぞれの国の国境ラインがどこまで明確であったのか。

そもそも、「信濃と越後の国境ラインを誰が決めたのか」も不明瞭な点があります。

そのため「信濃全土制圧とはどこまでか?」は、考え方で変わる可能性があるでしょう。

それでも、意気揚々としていた信玄は、

信濃全土制圧が、我が
武田の領土を広げる肝だ!

と考えていたのでしょう。

それに対して、景虎は、

ここで踏ん張らねば
ならん!

と「自衛戦争」と考えていたのでしょう。

この気持ちの違いが、川中島の合戦に現れたと思います。

第N次
第一次1553年
第二次1555年
第三次1557年
第四次1561年
第五次1564年
川中島の戦い

数度に及んだ川中島の合戦は、全体的には武田・上杉双方にとって引き分けとなりました。

最終的には、領土拡張に成功した武田家に「やや分がある」と考えられています。

よしっ!
勝ったぞ!

武田家の致命傷となった「武田典厩信繁戦死」

武田家重臣・武田信玄弟 武田 信繁(Wikipedia)

川中島全土を占領することによって「得られる領土」は、せいぜい数万石程度だったでしょう。・

とにかく、
これで信濃全土を固めた!

新歴史紀行
戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

これで、甲斐の倍の石高を有した信濃を制圧した武田。

これで、武田家の石高は20万石程度から、一気に3倍増の60万石程度になりました。

我が武田は
60万石となったぞ!

しかし、その代償は信玄にとっては大き過ぎたのです。

弟・武田信繁が
討死してしまった・・・

武田家の超有力重臣であった弟・武田典厩信繁が戦死してしまったのでした。

激戦であった第四次川中島の戦いでのことでした。

北信のわずかな領土では、とても割りに合わないものであったでしょう。

極めて優秀で、最も信頼していた実の弟・信繁を失い呆然自失とした信玄。

・・・・・

信玄は強い精神力で再起し、最終的には「やや勝ち」にまで持っていきました。

これこそ、信玄の真骨頂だったでしょう。

精神力は
強いのだ!

しかし、武田信繁を失ったことは「致命傷」でした。

武田家にとって、仮に「山県・馬場らの四天王をまとめて失う」以上の損失でした。

戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

この「武田典厩信繁戦死」は、後の義信事件の遠因となりました。

後に信玄死後、武田四郎勝頼への継承となる武田家。

ところが、これも非常に中途半端な継承の仕方であり、武田家滅亡の原因ともなりました。

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