前回は「武田信玄 4〜海を目標に南下を決断する信玄〜」の話でした。

その後の武田家の流れを考える時、長男義信を切腹に追い込んだのは、武田家にとって致命傷となりました。
義信を自刃に追い込まずに、武田晴信(信玄)の後を長男である義信が継いだならば。
その時、武田家の最後は、あのような凋落にはならなかったでしょう。
そして、第四次川中島で戦死した典厩信繁が「義信事件」のこの時存命だったら。
典厩信繁は、命を張ってでも義信を守ったでしょう。
信繁と義信二人がタッグを組んだら、家中統制上、流石の晴信も手の出しようがなかったでしょう。

そもそも、出陣して相手と総力戦を行う以上、晴信とて命の保証はなかったはずです。
戦の際に本陣が安全であっても暗殺の危険もあります。
その危険な地に、無二の腹心である弟の信繁まで出陣させたのは、晴信の大失敗でした。

第四次川中島では、山本勘助・諸角豊後守など多くの有力武将が戦死しています。
武田家にとって、「致命傷」となる事態を招く可能性があった「川中島の戦い」。
なぜ、晴信は大きな犠牲を払う可能性があったのに、何度も川中島に侵攻したのでしょうか。

甲斐国内で武田家内の紛争が続き、晴信の父信虎の代に、ようやく晴信の属する武田家で固めた甲斐。
そして、晴信は他国侵攻を目論みます。
「東に北条・南に今川」という状況の中、諸勢力乱立の信濃。
そして、領土が広いこともあり、石高20万石程度の甲斐に比べて、倍の40万石をもつ信濃。

信濃奪取こそ、
武田家の生きる道!
隣国信濃に、晴信は目をつけます。
晴信にとって、最初に他国へ侵攻した侵攻先だった信濃。
諸説ありますが、



とにかく信濃を固め、
武田家、そして私の武威を示したい!
と考えた晴信。
「信濃の全土制圧」は晴信の悲願だったのです。