前回は「飛武神・柴田勝家が見据えた未来〜熾烈な戦い・北陸平定へ・謙信の痛烈な一撃・崩れた秀吉との「二人三脚」体制・織田家の行方〜」の話でした。
猛烈な勢いの柴田軍:日本最強軍団
1575年の長篠の戦いで武田家に痛撃を与えた織田家。
そして、織田家最大の敵である本願寺を大坂(大阪)から退去させることに成功した信長。
権六が越前から加賀で
一行宗門徒をなで斬りにしたのが大きい!
はっ!
我が柴田軍団は織田家最強であり、日本最強です!
当時、島津軍、龍造寺軍、毛利軍も最強軍団の候補となり得ます。
持っていた軍事能力と豊富な実戦経験から、当時の柴田北陸方面軍は日本最強だったと言って良いでしょう。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
柴田勝家 | 1522年 |
滝川一益 | 1525年 |
明智光秀 | 1528年 |
織田信長 | 1534年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
総合的な軍事能力では、抜群の能力を持っていた信長。
武田信玄や上杉謙信と比較して「最前線で指揮する」ことも多かった信長の軍事能力はピカイチです。
権六は、
余に従って転戦すること30年か・・・
軍神・上杉謙信、武神・武田信玄よりも、「高い軍事能力を有していた」と思われる信長。
この信長の元で30年の長き期間に渡り、柴田勝家は全国で転戦しました。
1582年には60歳の超ベテランになっていた柴田勝家。
当時、飛武神・柴田勝家の軍事能力は、信玄・謙信と伍すか超えていたと言っても過言ではないでしょう。
飛武神・柴田勝家の情報戦略:崩壊した秀吉との二人三脚体制
もうすぐ上杉家には
止めを刺す!
柴田軍の勢いが
強すぎる・・・
もはや柴田勝家率いる北陸軍に対して「虫の息」の上杉家。
ただでさえ、織田家の勢いが強力すぎるのに加え、上杉家はもはや「昔日の勢いはない」存在でした。
謙信亡き後、後継者争い「御館の乱」で大きく力を落としました。
後継者争いでは
勝ったが・・・
これが、あの
上杉家か・・・
戦国最強の軍事能力を持つと言われ「軍神」と恐れられた上杉謙信。
当時、日本中が謙信の異常なまでの軍事的能力に恐れ慄きました。
私は
毘沙門天の化身なり!
自らを「毘沙門天の化身」とし、生涯女性と接しなかった謙信。(諸説あり)
いわば、ひたすら合戦と戦争に人生をささげた上杉謙信。
謙信には、煮湯を
呑まされたが・・・
この5年前の1577年、ついに上杉謙信が加賀へなだれ込んできました。
この「手取川の戦い」において、柴田勝家率いる北陸軍は大敗北したのでした。
その頃まで「仲が超悪い」ながらも、織田家の「軍事と諜報」の二人三脚を続けてきた勝家と秀吉。
権六には
我慢してきたが・・・
もう我慢ならん!
諜報なしで謙信に勝てるなら、やってみよ!
その二人は目前に「上杉謙信という超大敵」がいる状況において、ついに「完全決裂」しました。
猿なんぞ
おらんでも、もはや織田家の敵はいない!
謙信は
確かに強力だが・・・
情報・諜報戦略など、
我が軍でも十分よ!
お前は何も
分かっておらんな!
情報・諜報戦略が
合戦を左右することを!
当時、信長を除いて戦国最強となっていた飛武神・柴田勝家は、気づいていませんでした。
秀吉の情報・諜報能力が抜群というレベルではなく、空前絶後の圧倒的な能力であったことを。
秀吉不在の結果、柴田軍は上杉謙信に虚をつかれ、
今だ!
突撃!
大敗北を喫しました。
勝家と秀吉の「情報戦略に対する視点」の根本的違い
しかし、もう謙信は
この世にいない!
盛政よ!
はっ!
成政よ!
はっ!
上杉にトドメを
刺せ!
我らがいれば、
上杉など問題なし!
親父殿は、
ゆっくりしていてくだされ!
頼もしいのう!
もうすぐ織田の天下が確定し、勝家も少しはゆっくり出来そうな気がしていた、この時。
本能寺の変が勃発したのでした。
京・山城から遠い越中にいた勝家の元に、本能寺の変の一方が入りました。
はっ?
なんと・・・
う、
上様が・・・
絶句する勝家。
それは
本当か・・・
あの
明智が・・・?
・・・・・・
ところが、この「戦国最大の事件」の情報を得るのが遅かった勝家。
「情報を最重視していた」羽柴秀吉と比較すると、「情報を得るスピード・感度」は著しく劣っていました。
ならば、
どうする?
滝川と組んで、
明智を倒すか・・・
悩む勝家。
この「情報に対する感度の差」は、目前の上杉家と戦った際にもすでに表面化していたのでした。
ところが、その時の「大敗北の根本的理由」であった「諜報戦略の大きな欠陥」。
それに気づいていたはずの勝家でしたが、諜報戦略を最重視する姿勢に転向することはありませんでした。
織田が川を渡っているところを、
突撃せよ!
上杉謙信という軍神と戦った時、勝家は気づくべきでした。
諜報戦略が極めて重要であり、合戦の行方を左右することを。
この大きな大きなチャンスを逃し、「自らの生きる道を変えなかった」快男児・勝家。
極めて優れた飛武神・勝家の運命は、大きく変わるチャンスを逃していたのでした。
そして、この「諜報戦略への軽視」が柴田勝家の運命を決定しました。
次回は上記リンクです。