前回は「薩摩の国と海〜広い外洋へ続く薩摩の海・錦江湾と薩摩・海外と国内・薩摩の広大な領域・戦国期から幕末の薩摩と外国〜」の話でした。
薩摩藩主の別邸:仙巌園

鹿児島県中心部から、車・バスで15分ほどに位置する仙巌園。
江戸時代初期の1658年〜1661年に、薩摩藩主の別邸としてつくられました。
その後、適宜拡張され続け、島津斉興の時代には鹿児島湾・錦江湾を埋め立て、庭園が拡張されました。


我が島津の威信をかけた、
建築と庭園にするのだ!
後の第11代島津藩主であり、自分の息子である島津斉彬が藩主になるのを「妨害し続けた」斉興。
西郷隆盛を可愛がり、「西郷が世に出るきっかけ」を作った第11代島津藩主島津斉彬。


明治維新を成し遂げた薩長を主人公とする歴史観からは、「島津斉彬=善、斉興=悪」となりがちです。
錦江湾埋め立ての是非は別として、広大な日本庭園を生み出した斉興。
その力量・日本の伝統文化に対する認識もまた、大したものでしょう。
島津斉彬の尚古集成館:薩摩藩の底力


そして幕末期には11代藩主・島津斉彬によって、さらに拡張されました。
そして、「西洋の最先端科学技術研究所」とも言える尚古集成館などが付近に建築されました。



これからは、とにかく
西洋の科学技術を取り入れるのだ!



我が藩の財政に大きな影響が
出ようが、関係ない!



我が藩が率先して、
西洋に追いついてみせる!
「開明的・名君主」であったと言われる島津斉彬。
実際には、幕末の日本において「稀有な存在」とも言えるほどの大人物でした。
表高77万石とは言え、ほとんど米を生産しなかった薩摩藩。
加賀100万石に次ぐ薩摩藩ですが、「実高40万石ほどだった」という説もあります。
幕末には猛烈な借金を抱え、「破綻寸前だった」薩摩藩は、調所広郷の改革で乗り切りました。
長年、琉球などを介して「平然と密貿易をし続けた」薩摩藩。
「表の経済力」はそれほど高くなくても、密貿易から上がる莫大な収益が裏にあったのでしょう。
「調所広郷の改革」で、奄美大島などの砂糖を専売し、莫大な利益を上げていた薩摩。


大英帝国の「アジア部隊」とはいえ、当時の世界最強国相手に戦争をしました。


そして、討幕戦では、膨大な軍隊・軍事力とそれを支える経済力を見せつけた薩摩藩。
その「隠された力」の証拠の一つが、この雄大で豪華な仙巌園です。
日本古来の木造建築:典雅な御殿


非常に落ち着く、日本古来の木造建築で作られた御殿。
障子から差し込む「淡い光」が美しく、日本的感性に心が和みます。


後に明治新政府の「迎賓館」の役割を果たした御殿は、日本有数の豪華な日本建築でした。


内部にある照明には、島津家の家紋が描かれています。
この家紋が「最強国家・島津薩摩藩」を具現化しているかのようです。


庭園からは、「すぐそこ」に桜島が臨めます。
幕末・明治期までは、本当の島であった桜島は、現在は「九州と陸続き」です。
1914年の大正噴火の際の溶岩が固まり、大隅半島と「つながったため、島ではなくなった」桜島。





桜島・・・



我が薩摩藩の象徴である
桜島・・・
「小さな島」と言っても、海を隔てた向こうに「自国の領土である島」があった薩摩。
この環境で育った、西郷・大久保たちにとって、「海は近い存在」でした。
そして、遠い異国のことをイメージしやすい環境だったでしょう。
日本の端っこに位置するも、「世界から見れば、日本の入り口」とも言える位置にありました。
琉球藩を従属化し、奄美大島などの島々を支配した薩摩藩は、「島と海」が常に身近にありました。
豪華で、典雅ですらある仙巌園の御殿を訪れると、幕末維新期の薩摩の空気が感じられます。
鹿児島付近にお住まいの方、旅をする方はぜひ訪れてみてください。