薩摩の国と海〜広い外洋へ続く薩摩の海・錦江湾と薩摩・海外と国内・薩摩の広大な領域・戦国期から幕末の薩摩と外国〜|戦国・幕末・明治

前回は「薩摩の国〜西郷・大久保たちが見た海・海外とのつながり・九州の海と世界・海と薩摩の非常に近い関係・織田信長・大友宗麟・龍造寺隆信・島津義弘〜」の話でした。

目次

広い外洋へ続く薩摩の海:錦江湾と薩摩

鹿児島・桜島(新歴史紀行)

広い外洋へと続く、鹿児島の海。

西郷隆盛も大久保利通も、この海を見て、遠い異国を感じたのでしょう。

薩摩藩出身の幕末〜明治の将星: 左上から時計回りに、西郷隆盛、大久保利通、大山巌、東郷平八郎(Wikipedia)

西郷隆盛・大久保利通・東郷平八郎・大山巌は、同じ町内出身です。

現在は、鹿児島の中心部に位置する加冶屋町。

下加治屋町出身の西郷たちは、同じ郷中教育で育った仲です。

大山に至っては、西郷の従兄弟であり、非常に近い関係でした。

錦江湾(新歴史紀行)

薩摩といえば桜島であり、桜島の威容は当時の西郷たちを大いに勇気づけたでしょう。

この桜島のある錦江湾こそが、薩摩の内海であり外洋への扉ともいえました。

この錦江湾を眺めた西郷は、

この海の向こうに
メリケン(米国)がある・・・

と思ったでしょう。

海の向こうには、日本の島々もたくさんありますが、「藩が国」だった当時。

薩摩に属する琉球他の島々にも、薩摩の人々は思いを馳せたでしょう。

海外と国内:薩摩の広大な領域

薩摩と海(新歴史紀行)

交通が発達した20世紀に入ると、海外は全然遠い世界ではなくなりました。

さらにインターネットが発達して「当たり前のツール」となった今、海外は間近に感じられます。

一方で、ネットなどで「写真や情報に触れるだけ」と、「現地に行ってみる」ことは全く違います。

現地に行けば、実に様々なことに触れられます。

そこに住む人々の風土や食事などの習慣、あるいは匂いなど。

それは、とても貴重な体験です。

大久保 利通(国立国会図書館)

外国等、現地に行ければ最も良いのですが、そうできなければ、色々な情報に触れるのも楽しいです。

「向こうはどんな雰囲気だろう?」と思いを馳せてみるのもまた、楽しいですし、いい経験になります。

戦国期から幕末の薩摩と外国

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

戦国期には、現在の大阪である堺が南蛮・ヨーロッパとの交流の拠点・窓口となっていました。

そこでは、様々な舶来品がやってきて、莫大な富をもたらしていました。

様々な物品が堺に運ばれてきましたが、やはり南蛮・中国から見て、「近い港」にものが集まります。

向こうから見て「近い」のは、なんと言っても九州です。

九州のさまざまな港では、古来から中国とさまざまな交易をしてきました。

太平洋側に面していた先進的な尾張や伊勢などでは、戦国期から

海の向こうに
南蛮がある。

と考えていたかもしれません。

地球儀を理解した信長は、そういう視野を持っていたでしょう。

一方で、秀吉や家康などの武将には、あまりそういう痕跡はありません。

太平洋側の国々も、水運があるとはいえ、やはり国内側を向いていました。

東海道の海に面する国々もまた、海外よりも美濃や近江との関係が多かったと考えられます。

長州藩・佐賀藩などの国もまた、江戸後期〜幕末にかけて、諸外国と接してきました。

鹿児島湾(新歴史紀行)

織田家・豊臣家・徳川幕府以外、「諸外国と接点を持つ国・藩」もありましたが、薩摩は別格でした。

そして、「海から外洋・外国を見続けてきた」ただ一つの国・薩摩。

幕末において、薩摩のみが「飛び抜けたパワー・エネルギー」を持っていた理由。

その理由には、薩摩独特の武士層の多さ・密貿易による経済力などがあります。

それらも重大な要素ですが、「薩摩の海」が最大の「力の根源」だったのでしょう。

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

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