海軍航空派を牽引する山口多聞司令官〜主役は空母へ・日本海海戦と山本五十六長官・海軍航空部隊の育ての親山本長官:海軍航空本部長と海軍次官〜|真珠湾奇襲攻撃35・太平洋戦争

前回は「演説を準備するルーズベルト大統領〜原稿チェックと米国民への思い・ドイツ海軍との死闘をくぐり抜けたキング司令官・全く想定外の大損害・米海軍の再建〜」でした。

目次

日本海海戦と山本五十六長官

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

若き日々に、日本海海戦で少尉としてロシア海軍と戦った高野(山本)五十六。

当時は、まだ実家の高野姓を名乗っていました。

高野(山本)五十六少尉:1905年(Wikipedia)

左手の指二本を失う重傷を負いながらも、大海戦を戦い抜きました。

あの怪我は、大変な
ことだったが・・・

日本海海戦を
戦った経験は大事だ!

戦艦三笠に座乗する東郷平八郎連合艦隊司令長官(Wikipedia)

この頃は、「戦艦中心」であり、

戦艦こそが
海軍の戦力の中心!

であり、若き高野(山本)少尉もまた、戦艦三笠の力を知ったのでした。

その後、主に軍政畑を歩み、海軍軍縮条約代表などで各国と交渉の中心人物となっていた山本長官。

Yamamotoは、
なかなか大した人物だ!

その堂々たる姿勢は、米国はじめ各国代表団から、高い評価を受け、

Japanの海軍の
Yamamotoは要注意だ!

と目をつけられるほど、高い評判でした。

海軍航空部隊の育ての親・山本長官:海軍航空本部長と海軍次官

1934年のロンドン軍縮条約に海軍首席代表として出席する山本五十六(Wilipedia)

早くに航空機・空母の可能性を見出した山本長官。

山本は軍政側から、航空隊の整備の中心人物となります。

これからは、
航空機の時代だ!

海軍航空本部長として、
航空部隊を育成する!

長く勤めた航空本部長は「本部長」と言えども、海軍次官に匹敵するほどの権限を持っていました。

航空本部長時代に、日本海軍の航空隊を育てることに尽力した山本五十六。

のちに永野修身が海軍大臣だった時に、永野の指名で海軍次官就任を要請された際、

次官よりも、航空隊を育てることに
人生を尽くしたい!

航空本部長を続けたいので、
次官就任はお断りします!

海軍No.2の次官就任を蹴った山本。

永野修身 海軍大臣(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

次官就任を
断るとは・・・

山本は、
私が嫌いなのかね・・・

いえ。
そんなことはありません。

ならば、
海軍次官を引き受けてくれ。

海兵で4期先輩の永野に、こう言われては強情な山本といえども、

これ以上は、
断れん!

承知しました・・・

次官就任を引き受けた山本でした。

海軍兵学校卒業期名前役職
28永野 修身軍令部総長
32嶋田 繁太郎海軍大臣
32山本 五十六連合艦隊司令長官
36南雲 忠一第一航空艦隊司令長官
39伊藤 整一軍令部次長
40山口 多聞第二航空戦隊司令官
41草鹿 龍之介第一航空艦隊参謀長
日本海軍幹部の役職と海軍兵学校卒業期(真珠湾奇襲攻撃時:1941年12月)

本当は、

もっと
航空本部長を続けたい!

と考えていた山本五十六。

嫌々ながら、海軍次官を引き受けました。

そして、航空本部長時代から本気で育成していた海軍航空部隊を引き続き育て上げたのでした。

海軍航空派を牽引する山口多聞司令官:主役は空母へ

山本五十六 連合艦隊司令長官(連合艦隊司令長官 別冊歴史読本 新人物往来社)

海軍次官の後に、連合艦隊司令長官となった山本長官。

これからは、
空母だ!

と考えているものの、相応の年季があり、思考の柔軟性は若手に劣ります。

その若手の中で、最も「空母主軸」を唱えていた将軍の一人・山口司令官。

山口多聞 第二航空戦隊司令官(WIkipedia)

これからは、
空母だ!

我々が
日本海軍を背負うのだ!

事前に、軍令部の情報部隊が駐在武官・吉川からの情報から

米空母エンタープライズと
レキシントンが・・・

攻撃当日は、
真珠湾に在泊しているだろう・・・

と聞いていた山口司令官。

エンタープライズと
レキシントン、どちらかはいるだろう!

我々が米空母を、
撃沈してくれる!

海軍内部でもライバル心燃える中、もっとも戦意が盛んだった山口司令官。

第二航空戦隊 空母飛龍(Wikipedia)

我が二航戦が
米空母を沈めるのだ!

空母飛龍で、部下を叱咤激励していました。

ゆけ!
我が航空部隊が大きな戦果を挙げるのだ!

次回は上記リンクです。

新歴史紀行

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