前回は「真珠湾奇襲攻撃 20〜万全の体制を取る米国〜」でした。

南雲忠一第一航空艦隊司令長官・山口多聞第二戦隊司令官らが率いる正規空母6隻の大空母機動部隊。

機動部隊は一度、偽装進路をとって北上します。
そして、択捉島周辺の単冠湾(ひとかっぷわん)で一度集結して、一路ハワイを目指します。

1941年11月26日に単冠湾を出発して、ヒタヒタと静かにハワイへ迫ります。
その間も日米交渉は続けられており、野村大使とハル国務長官は、交渉を続けていました。


交渉を続けたところで、時間の無駄だ。



日本が何を考えているのか、は手にとるように分かっているんだ!
御前会議において、「1941年12月1日までに日米交渉妥結できない場合、宣戦布告」と決まりました。


日米交渉は決裂し、同年12月2日に日本から南雲機動部隊向けて開戦通知の暗号電文が発信されます。
有名な「新高山ノボレ1208」です。





ついに来ましたね。



ついに来たか!
新高山とは、当時日本領だった台湾の最高峰の新高山のことです。
この暗号も米軍に傍受・解読されていました。
「新高山登レ」の内容は、東條首相・東郷外務大臣・南雲司令長官等ごくごく少数の人間にしか分かりません。


傍受・解読した米軍。「なんのことだ?」と推測するしかありません。



「新高山登レ」ってなんだ?



分かりませんが、そろそろ日本が攻撃してきそうです。



万全の体制でいろ!



承知致しました。
しかし、日本側の攻撃を察知する米国。



「一二〇八」とは攻撃実施の日だろう。



そのまま「12月8日」なのか、これもなんらかの暗号で、
違う日なのか・・・



いずれにしても、間も無くジャップは、
我が合衆国を攻撃してくることは間違いない!


ハル国務長官と交渉を続けていた野村吉三郎・来栖三郎米国大使率いる大使館員は、困難な状況はわかっていたでしょう。
日本政府の東郷外務大臣が、米大使館に訓令を出しました。





12月7日13:00(ワシントン時間)にハル国務長官に覚書を渡すように。
真珠湾奇襲攻撃は、その30分後の12月7日13:30(ワシントン時間)です。



12月7日13:30(ワシントン時間)には攻撃が開始する。



承知しました。


宣戦布告となる米国への最後通告書は全て14通ありました。
そして13通までは、前日12月6日(ワシントン時間)の夕方まで送られていました。
この13通すべてを米軍は傍受・解読して、通訳した書類をルーズベルト大統領とハル国務長官へ届けます。
内容は、宣戦布告ではありません。
しかし、これまでの日米関係の歴史や日米交渉の経緯を詳細に綴ってあり「いかにも最後通告書」でした。



日本から米大使館へ、
最後通牒が送られてきました。



ついにきたか!



万全の体制取れ!



承知しました。
更なる傍受・解読を情報部へ指示します。
ハワイ真珠湾基地を守る、キンメル米太平洋艦隊司令長官。


キンメル米太平洋艦隊司令長官は、何も知らされないままでした。
この以前に、米海軍では「日本の真珠湾への奇襲攻撃」の可能性が検討されていました。
しかし、この頃は「それはあり得ない」と、米海軍最前線は考えていたのです。
事実上の臨戦態勢に入った米国。



日本海軍は、どこを攻撃してくるのか?



ハワイ真珠湾を攻撃するかもしれぬが・・・



そうそう考えられることではない。
対して、日本の大使館は安穏としていました。
この訓令の重要性を認識していなかったのです。
訓令の最後の部分である「宣戦布告の部分」が届いていなかったことも、理由の一つです。



米国への最後通牒は、いつ来るんだ?



週末だし、ゆっくり過ごそう。
風雲急を告げる中、この訓令が「日本の命運を左右する最重要文書」であることに気づかなかったのです。
ワシントン米大使館員全員が、緊張感を欠いていました。
山本五十六司令長官の海軍先輩であり、良好な仲の野村吉三郎米大使。



野村さんは、しっかりやってくれるだろう。
山本司令長官の考えは、非常に甘かったのです。