前回は「真珠湾奇襲攻撃 14〜マッカーサーとルーズベルト〜」でした。
この間、日米交渉は続けられていました。
米国から「中国・南部仏印からの全面撤退」などの強硬な要求を受け、日米衝突を避けることを模索していた近衛文麿内閣は、東條英機陸軍大臣の辞任により倒閣してしまいます。
代わりに東條英機前陸軍大臣が昭和天皇から組閣を命ぜられます。
東條自身「えっ、俺が総理?」と不思議に思ったでしょう。
なんと言っても近衛内閣を倒した張本人です。
海外からは「悪の権化」のように扱われる東條英機ですが、昭和天皇の命令を受け、当初東條内閣は米国との戦争と「交渉を続けて和戦」両方の道を模索していました。
大本営政府連絡会議でも議論は紛糾します。
御前会議において1941年12月1日までに日米合意できなければ、武力発動=宣戦布告ということに決まりました。
中国やアジアで戦線を広げている陸軍は南方の米領フィリピン等を攻撃、海軍は真珠湾奇襲攻撃です。
米国とは協議を続けていた日本側の代表者は米国大使 野村吉三郎と二人目の大使 来栖三郎でした。
日本側は米国との交渉を重視し「米国大使を二人」という異例の重厚な布陣で臨みました。
野村・来栖両大使と交渉した米国側担当者はハル国務長官です。
Cordell Hull米国務長官(Wikipedia)
ヨーロッパをヒトラー率いるドイツのものにさせるわけにいかない米国としては、ヨーロッパを睨みながら、日本との戦争準備を着々と進めていたでしょう。
しかし、米国から日本に戦争を仕掛けるわけには行かない状況がありました。
異例の3選を遂げて米国大統領となったルーズベルト米大統領は選挙で「若者たちを戦場に送らない」と公約していました。
米国民も「ヨーロッパやアジアの戦争に、なぜ米国の若者が命をかけて戦う必要があるのか。」と厭戦ムードが強い状況でした。
特に米国民にとっては「ヨーロッパなら分かるが、なぜはるばる太平洋の向こうのアジアの戦地に行って戦う必要があるのか。関係ないだろう。」というのが大勢でした。
Franklin Roosebelt米大統領(Wikipedia)
その最も分かりやすい内容は「先に日本に米国を攻撃させる」ことです。
先に攻撃されれば、「自国及び自国民を守るために」大手を振るって参戦できます。
ルーズベルト米大統領とハル米国務長官は、日本側の外務省本省とワシントン大使館の間の無電の暗号をほぼ全て解読し、手の内を読んでいました。
そして「どうしたら日本は先に米国を攻撃してくるか」「日本はいつ・どこを攻撃してくるか」と虎視眈々と狙っていました。