前回は「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館〜朝倉義景の世界的視点・島津と組んで琉球貿易・一乗谷の古い街並の模型・浅井朝倉と織田の死闘〜」の話でした。
一乗谷朝倉氏遺跡:琉球貿易見据えた朝倉義景
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福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館を訪れたあとは、すぐ近くにある一乗谷朝倉氏遺跡へ。
戦国時代に「殷賑を極めた」と言われる一乗谷の夢の跡が復元されています。
この日は勝山から一乗谷に向かいました。
「一乗谷」の名前通り、途中から山に挟まれた谷が続きます。
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戦国時代において、不当なまでに低く評価されている戦国大名 朝倉義景。
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館では、朝倉義景に関する企画展が行われていました。
そこでは、意外な「朝倉義景の横顔」が見られたのが非常に面白かったです。
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朝倉義景が島津義久に「琉球貿易への参加」を申し入れ、島津義久が同意した様です。
それに対して感謝する返答を出した朝倉義景の文書が展示されていました。
戦国期、日本海の流通を押さえ、かなり強い経済力を持っていたと言われる朝倉家。
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日本海から琉球に
船を出して、貿易をするのだ!
という強い意志を持っていた朝倉義景。
朝倉宗滴などの名将も輩出した朝倉家は、なんといっても知名度では義景がダントツです。
いわば「地元の名士」である朝倉義景中心の企画展であったので、「義景に甘い」のは当然でしょう。
その中、
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我が越前の敦賀や三国湊を
さらに活用するのだ!
と流通による経済活性化と様々な文化・技術の導入に積極的でした。
戦国から幕末の越前:松平春嶽と一乗谷
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現代でも福井県と沖縄は「飛行機でひとっ飛び」とは言え「遠い」です。
それにも関わらず、戦国時代に「遥か遠い琉球」との貿易を見据えた義景。
「凡将」どころか「愚将」扱いされる義景ですが、相応の器量を持っていたと考えます。
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従属大名だった浅井と組んで、織田家を圧迫しづけた朝倉義景でしたが、
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朝倉家を
潰せ!
肝心なところで「ツメが甘かった」こともあり、信長によって滅亡されました。
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おのれ・・・
信長め・・・
これは「義景の力量不足」というよりも、「相手(信長)が強すぎた・悪すぎた」のでしょう。
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一乗谷を
焼き払え!
そして、「繁栄を極めた」と言われた一乗谷は織田家によって徹底的に破壊・焼却されました。
江戸期に入って、越前は徳川家の親藩大名である松平家が入り32万石の規模を誇りました。
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幕末には松平春嶽を輩出し、江戸期に一定の力を持ち続けた松平家の本拠地となった越前。
松平家は「かつての国主」であった朝倉家の国都・一乗谷には、あまり触れなかった様です。
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一乗谷は、
奥の方で不便だからな・・・
徳川家の政策によって「船に対する制限」が強かった江戸時代。
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この中、東廻り航路と西廻り航路が開発され、海外との接点が増えてきた江戸時代。
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やはり、海へ
向かわなければ!
諸大名の視線は海へ、海へと向かっていたのでしょう。
その中、「琉球との交易」を狙っていた義景は、
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これからは「海の時代」
なのだ!
と考えていたのであり、「時代に先んじていた雄大な発想」だったと評価できるでしょう。
「戦国の香り」残る復元街並
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そして、江戸時代に大きな工事等が行われなかった一乗谷。
そのこともあり、「戦国期の遺跡」が奇跡的なまでに遺っていたのが一乗谷でした。
戦後、一乗谷に貴重な遺跡が残っていることが確認され、大規模な発掘調査が開始されました。
あまりにも貴重なため、国の特別史跡に指定されています。
一乗谷朝倉氏遺跡のエリアに入ると、様々な発掘調査の跡が伺えます。
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その一角には「古き街並を復元した」エリアがあります。
朝倉家の中心都市であり、当時の日本有数の大都市であった一乗谷。
その「戦国時代の一乗谷」を「戦国の香り」とともに楽しめるエリアです。
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かつて大規模な武家屋敷があったと思われる門も復元されています。
ここ一乗谷は、名前の通り「谷間につくられた都市」であり、両側には小高い山がそびえたっています。
そのため、どちらを向いても多数の樹木が見えます。
この門を見ていると、まるで「多数の樹木のある山への入り口」の様にも感じられます。
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そして、真っ直ぐに整備された道に綺麗に区画された町屋が並びます。
山に囲まれた「交通には不便な谷にある街」である一乗谷は、見渡す限り山に囲まれています。
この復元された街並を歩いていると、小高い山の緑が映えて、とても気持ちが良いです。
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我が一乗谷は、
ここにしかない大都市なのだ!
殷賑極めた一乗谷は、戦国時代の当時において「ただ一つの大都市」だったのでしょう。
朝倉氏の栄華を実感できる一乗谷朝倉氏遺跡。
歴史ファンの方は、ぜひ訪れてみてください。
次回は上記リンクです。