前回は「島津軍の敵中突破と井伊直政〜関ヶ原の戦いと島津義弘の死闘・近江と藩祖井伊直政・徳川家康の思惑・薩摩島津家を睨む井伊直弼〜」の話でした。
超名門井伊家の十四男・井伊直弼
超名門井伊家に生まれた井伊直弼。
将来は嘱望されたかと言うと、そうではありませんでした。
1815年彦根全藩主・井伊直中の十四男として、生まれました。
十四男・・・
文字通り「十四番目に生まれた」男子です。
この時代は、「小さくして亡くなってしまう子ども」が多かった時代です。
それでも、
十四番目では、
出番はないだろう・・・
と井伊直弼が考えたのは当然でした。
しかも、直弼が生まれた時、だいぶ歳の離れた兄の直亮が既に藩主となっていました。
兄の井伊直亮が
藩主だ!
直亮兄ちゃん以外にも、
沢山の兄ちゃん達がいる・・・
僕が彦根藩主になる
可能性は・・・
まあ・・・
ゼロだろうな・・・
十四男の直弼は、到底、井伊家を継ぐ立場ではありませんでした。
そのため、庶子として武芸・学問に励んで、他家の養子話がくるのを待つ状況でした。
一生懸命、勉学に励み、
良い家から声をかけてもらおう!
頑張るぞ!
埋木舎で「埋もれ続けた」人生:長野主膳との出会い
直弼は自分の住処を「埋木舎」と名づけ、長い時間を過ごします。
私の人生は
「埋もれている」のだ・・・
私は表に出ることは、
ないのだろう・・・
住処の名前からして、世捨て人を連想させます。
武芸・学問に励んでいた直弼は他の兄たちが、次々と他家の養子に決まる中、全く決まりません。
なぜ、
私だけ決まらない・・・・・
この頃、直弼はかなり気分が滅入っていたでしょう。
私は不必要な
人間なのか・・・・・
この頃に国学者 長野主膳と出会い、国学に傾倒してゆきます。
長野主膳先生から
しっかり国学を学ぶぞ!
吉田松陰・橋本左内ら志士たち:「同じ学者としての同志」の可能性
名門・井伊家に、
生まれた私だが・・・・・
特に世の中に必要とされない人生を、
歩むのか・・・・・
若くして「すでに達観した」かのような直弼。
このまま学問に励む人生も、また良かったかもしれません。
ひたすら、
学問し続けるか・・・・・
それもまた、
良い人生かもしれんのう・・・
もし、井伊直弼がこのまま学問を続け、国学者となった時。
井伊直弼の頭脳ならば、優れた国学者となったでしょう。
ならば、高杉晋作ら志士たちとは、特段接点もなく、平穏な人生となったことでしょう。
さすれば、吉田松陰や橋本左内らの名前を知るのは、学問の上でのことだったでしょう。
特に、若い頃から非常に優秀で優れた頭脳を持っていた橋本左内。
名前 | 生年 |
井伊直弼 | 1815 |
吉田松陰 | 1830 |
橋本左内 | 1834 |
もし、井伊直弼が学者人生を続けていた時。
若い頃から有名だったであろう橋本の名前は、学者を続けた井伊も知る事になったと考えられます。
橋本左内か・・・
若いが大変優れている・・・
井伊は平穏に過ごして、学問を続ける人生だったに違いないでしょう。
吉田松陰・橋本左内たちが、井伊直弼にとって「同じ学者としての同志」となる可能性が、この頃はありました。
歴史がこのように進めば、吉田松陰と橋本左内は、その優れた頭脳を活かす機会がもっとあったでしょう。
もちろん、井伊直弼本人も。
次回は上記リンクです。