超名門井伊家の十四男・井伊直弼〜埋木舎で「埋もれ続けた」人生・長野主膳との出会い・吉田松陰・橋本左内ら志士たち・「同じ学者としての同志」の可能性〜|井伊直弼3・出身・人物像

前回は「島津軍の敵中突破と井伊直政〜関ヶ原の戦いと島津義弘の死闘・近江と藩祖井伊直政・徳川家康の思惑・薩摩島津家を睨む井伊直弼〜」の話でした。

井伊 直弼(Wikipedia)
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超名門井伊家の十四男・井伊直弼

新歴史紀行
彦根城(新歴史紀行)

超名門井伊家に生まれた井伊直弼。

将来は嘱望されたかと言うと、そうではありませんでした。

1815年彦根全藩主・井伊直中の十四男として、生まれました。

十四男・・・

文字通り「十四番目に生まれた」男子です。

この時代は、「小さくして亡くなってしまう子ども」が多かった時代です。

それでも、

十四番目では、
出番はないだろう・・・

と井伊直弼が考えたのは当然でした。

しかも、直弼が生まれた時、だいぶ歳の離れた兄の直亮が既に藩主となっていました。

兄の井伊直亮が
藩主だ!

直亮兄ちゃん以外にも、
沢山の兄ちゃん達がいる・・・

僕が彦根藩主になる
可能性は・・・

まあ・・・
ゼロだろうな・・・

十四男の直弼は、到底、井伊家を継ぐ立場ではありませんでした。

そのため、庶子として武芸・学問に励んで、他家の養子話がくるのを待つ状況でした。

一生懸命、勉学に励み、
良い家から声をかけてもらおう!

頑張るぞ!

埋木舎で「埋もれ続けた」人生:長野主膳との出会い

国学者 長野主膳(Wikipedia)

直弼は自分の住処を「埋木舎」と名づけ、長い時間を過ごします。

私の人生は
「埋もれている」のだ・・・

私は表に出ることは、
ないのだろう・・・

住処の名前からして、世捨て人を連想させます。

武芸・学問に励んでいた直弼は他の兄たちが、次々と他家の養子に決まる中、全く決まりません。

なぜ、
私だけ決まらない・・・・・

この頃、直弼はかなり気分が滅入っていたでしょう。

私は不必要な
人間なのか・・・・・

この頃に国学者 長野主膳と出会い、国学に傾倒してゆきます。

長野主膳先生から
しっかり国学を学ぶぞ!

吉田松陰・橋本左内ら志士たち:「同じ学者としての同志」の可能性

左上から橋本左内、吉田松陰、月照、梅田雲浜(Wikipedia)

名門・井伊家に、
生まれた私だが・・・・・

特に世の中に必要とされない人生を、
歩むのか・・・・・

若くして「すでに達観した」かのような直弼。

このまま学問に励む人生も、また良かったかもしれません。

ひたすら、
学問し続けるか・・・・・

それもまた、
良い人生かもしれんのう・・・

もし、井伊直弼がこのまま学問を続け、国学者となった時。

井伊直弼の頭脳ならば、優れた国学者となったでしょう。

幕末の長州の志士たち:左上から時計回りに久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、前原一誠(Wikipedia)

ならば、高杉晋作ら志士たちとは、特段接点もなく、平穏な人生となったことでしょう。

さすれば、吉田松陰や橋本左内らの名前を知るのは、学問の上でのことだったでしょう。

特に、若い頃から非常に優秀で優れた頭脳を持っていた橋本左内。

名前生年
井伊直弼1815
吉田松陰1830
橋本左内1834
井伊直弼と志士たちの生年

もし、井伊直弼が学者人生を続けていた時。

若い頃から有名だったであろう橋本の名前は、学者を続けた井伊も知る事になったと考えられます。

橋本左内か・・・
若いが大変優れている・・・

井伊は平穏に過ごして、学問を続ける人生だったに違いないでしょう。

吉田松陰・橋本左内たちが、井伊直弼にとって「同じ学者としての同志」となる可能性が、この頃はありました。

歴史がこのように進めば、吉田松陰も橋本左内は、その優れた頭脳を活かす機会がもっとあったでしょう。

桜田門外の変(Wikipedia)

もちろん、井伊直弼本人も。

新歴史紀行

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