前回は「井伊直弼 1〜井伊家の肖像 1〜」の話でした。

超重要な近江 佐和山を任され、徳川家康から「徳川家の超重要な柱の一つ」として将来を嘱望された初代 井伊 直政。
しかし、、関ヶ原の合戦2年後の1602年に亡くなります。
まだ42歳でした。

亡くなった原因は関ヶ原の戦いでの傷でしたが、その傷を追わせたのは薩摩島津家の島津 義弘でした。

戦場の傷なので、武士としては致し方ない面もありますが、その傷を追わせた時は西軍の敗北が決定していた時でした。
西軍敗北決定後、わずか1500程度の軍勢しか率いていなかった島津義弘。

腹ば切るごわす!
一度は自刃を決断するも、甥の島津豊久に説得され、薩摩に退却を図ります。
といっても、味方の西軍は壊滅状態で、周りは東軍ばかり。



敵中突破するごわす!
なんと「前進して退却」という、前代未聞の敵中突破を図ります。
わずか1500とはいえ、相手は強烈な強さで有名な島津家。
秀吉の命令で外征を行った文禄・慶長の役では、外国である朝鮮でもその強さが喧伝された諸大名の中でも別格の存在です
戦闘好きの福島正則の陣の前面を通過します。





島津は強い!



もはや勝ったのだから、島津を相手にしても
益なし!
戦闘に疲れ果て、勝利に喜んでいた東軍。
相手にしたところで反撃される可能性代で、メリットがあるか分からぬ島津家の敵中突破は「スルーしたい」相手です。
まさに「触らぬ神に祟りなし」。
いったい島津は何を考えているのだ?
徳川側の武将は、不思議に思ったでしょう。


一時は押されていたものの、西軍に快勝した徳川軍。
目の前を突破して退却する島津に対し、怒り心頭になります。



島津を討て!



この直政に、お任せを!
そして、徳川家きっての勇将で会った井伊直政は果敢に島津軍を追撃します。
精強な島津軍の反撃を受けて、大きな負傷を追ってしまいます。
東軍の猛烈な追撃を受ける島津義弘率いる島津軍。
島津豊久・長寿院盛淳らが義弘の身代わりになるなど必死の退却線を演じます。


1500名のほとんどが討ち死にするも、辛くも島津義弘及び80名ほどは薩摩に帰還します。
幕末風雲の際に猛烈な存在感を見せつける西郷隆盛・大久保利通たち。
彼らが、この異常とも言える強烈な家風の藩の人間であったことは重要な事実です。


井伊直政はこの時の島津との戦いでの負傷が致命傷となり、2年後に亡くなります。



なんと・・・・・



我が腹心の直政が、
こんなに早く死ぬとは・・・
はるかに年上の家康は健在でしたが、かなりガッカリしたことでしょう。
1615年大坂の陣のあとに、井伊家は佐和山18万石から彦根藩30万石に加増され「徳川家の柱」となることを嘱望されます。
その井伊家に誕生した井伊直弼。
プライドが高いのは当然です。



我が井伊は超名門!
そして、藩祖井伊直政のことを考える時、薩摩島津家に対して強い敵対感情を持っていたのは当然した。
徳川家及び御三家・譜代大名・外様大名という色分けがされている幕藩体制。



島津は、我が藩祖直政を倒した、
憎き奴ら・・・
名門に生まれ、島津薩摩藩含む外様大名に対して、そもそも良い感情を持っていなかったのは間違い無いでしょう。