島津軍の敵中突破と井伊直政〜関ヶ原の戦いと島津義弘の死闘・近江と藩祖井伊直政・徳川家康の思惑・薩摩島津家を睨む井伊直弼〜|井伊直弼2・出身・人物像

前回は「井伊直弼と井伊家の肖像〜徳川四天王と徳川幕府・石田三成の佐和山を任された井伊直政・豊臣家に睨みをきかせた井伊〜」の話でした。

井伊 直弼(Wikipedia)
目次

近江と藩祖・井伊直政:徳川家康の思惑

京・山城中心の日本列島(新歴史紀行)

戦国期を通じて近江は、非常に大事な地でした。

まず、京都に隣接する「日本の中枢」にある国であり、商業が盛んでした。

それは、様々な街道が近江で交わっていたため、人の流れ・流通が多かったことが理由です。

昔から「近江商人」という言葉があるほど、近江の商業は隆盛を誇っていたのです。

戦国期の国別石高(歴史群像シリーズ 1 織田信長 学研)

さらに、琵琶湖という水瓶を有していた近江は、米の生産量がトップでした。

何と、近江一国で「77万石余り」を有する、超巨大な生産量を持っていたのでした。

陸奥は広大な地であるので除外すると、ダントツトップであり、二位の武蔵は66万石ほどでした。(太閤検地)

この近江「77万石余り」の巨大な生産量は、50万石クラスが多い近畿では、そう目立った存在ではありません。

ところが、地方と比較すると差は歴然であり、20万石を切ることが多い「中国地方の国3つ分以上の生産量」です。

鉄砲:種子島鉄砲館(新歴史紀行)

さらに重要な点があり、戦国期中期以降、近江は鉄砲生産の一大拠点・国友村を持っていました。

莫大な米の生産量・巨大な商業力・鉄砲の一大生産拠点という三つが揃った「ただ一つの国」であった近江。

天下人・関白 豊臣秀吉(Wikipedia)

佐吉(三成)よ。
近江は、そなたに任せた!

治部少輔・豊臣大名 石田三成(Wikipedia)

ははっ!
お任せを!

だからこそ、豊臣秀吉は豊臣家成立以降、最も子飼いで有能な石田三成に、近江・佐和山19万4000石を任せたのです。

商業力が高い近江であったことなどを考えると、石田家の領土は30万石程度に匹敵したでしょう。

徳川幕府初代征夷大将軍:徳川家康(Wikipedia)

そして、その石田三成を討滅した家康は、

ここを任せられるのは、
尋常の武将では不可能・・・

と考え、

井伊直政よ。
そなたが、佐和山を治めよ!

ははっ!
お任せを!

徳川家で最も優れた「文武両道の将」である井伊直政に佐和山を任せました。

そして、

井伊家には、
徳川家の屋台骨になってもらいたい!

徳川四天王:左上から時計回りに酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政(Wikipedia)

徳川家興隆の担い手であった、徳川四天王。

名前生年
徳川家康1542年
酒井忠次1527年
本多忠勝1548年
榊原康政1548年
井伊直政1561年
徳川家康と徳川四天王の生年

家康及び徳川四天王の中で、圧倒的最年少でありながら、「最も家康に期待されていた」井伊直政。

徳川家康は、19歳年下の直政に対して、

ワシ亡き後も、
井伊直政が居れば、徳川は安泰・・・

こう家康は考えていたでしょう。

島津軍の敵中突破と井伊直政:関ヶ原の戦いと島津義弘の死闘

徳川家臣 井伊直政(Wikipedia)

超重要な近江・佐和山を任され、徳川家康から「徳川家の超重要な柱の一つ」として将来を嘱望された初代 井伊直政。

ところが、関ヶ原の合戦2年後の1602年に亡くなります。

なんと、直政が
亡くなった、だと・・・

大きな衝撃を受ける家康。

直政は、まだ42歳でした。

亡くなった原因は、関ヶ原の戦いでの戦傷でした。

関ヶ原での傷が
致命傷か・・・

武人として、
本望だ・・・

そして、その傷を追わせたのは、薩摩島津家の島津義弘でした。

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

戦場の傷なので、武士としては致し方ない面もあります。

ところが、その傷を追わせた時は、「西軍の敗北が決定していた後」でした。

西軍敗北決定後、わずか1500程度の軍勢しか率いていなかった島津義弘。

腹ば切るば、
ごわす!

一度は自刃を決断するも、甥の島津豊久に説得され、薩摩に退却を図ります。

といっても、味方の西軍は壊滅状態で、周りは東軍ばかり。

敵中突破する
ごわす!

なんと「前進して退却」という、前代未聞の敵中突破を図ります。

わずか1500とはいえ、強烈な強さで有名な島津家。

秀吉の命令で外征を行った文禄・慶長の役では、外国である朝鮮でもその強さが喧伝されました。

いわば、強さにおいては、諸大名の中でも別格の存在でした。

戦闘好きの福島正則の陣の前面を、さっと通過した島津軍。

戦国大名 福島正則(Wikipedia)

島津は強い!

もはや勝ったのだから、
島津を相手にしても益なし!

戦闘に疲れ果て、勝利に喜んでいた東軍。

相手にしたところで反撃される可能性大でした。

メリットがあるか分からぬ、敵中突破中の島津への攻撃。

これは「スルーしたい」相手です。

まさに「触らぬ神に祟りなし」だったでしょう。

いったい島津は、
何を考えているのだ?

徳川側の武将は、不思議に思ったでしょう。

一時は押されていたものの、西軍に快勝した徳川軍。

目の前を突破して退却する島津に対し、怒り心頭になったのが家康でした。

おのれ、これから我が
徳川の世だというのに・・・

徳川を愚弄する奴は、
断じて許さん!

誰か、
島津を討て!

この直政に、
お任せを!

そして、徳川家きっての勇将で会った井伊直政は果敢に島津軍を追撃します。

ところが、精強な島津軍の反撃を受けて、大きな負傷を追ってしまいます。

東軍の猛烈な追撃を受ける、島津義弘率いる島津軍。

島津豊久・長寿院盛淳らが、「義弘の身代わりになる」など必死の退却戦を演じます。

島津家臣 長寿院盛淳(Wikipedia)

我こそは、
島津維新義弘なり!

おい!
島津義弘だ!

討ち取れ!
島津だ!

うぐっ!
義弘様、ご無事で薩摩へ退却して下され・・・

1,500名のほとんど全員が討ち死にするも、辛くも島津義弘及び80名ほどは薩摩に帰還します。

なんとか、
薩摩にもどったが・・・

1,500名ほどの我が家臣団を
死なせてしまった・・・

・・・・・

悲嘆に暮れる義弘ですが、悲嘆に暮れている状況ではありません。

戦後、「事実上の天下人」となった徳川家康。

島津を
取り潰す!

ここは、
仲良くしようではないですか・・・

かかってくるなら、
かかって来れば良いごわす!

謝罪したり、明との交易船を沈没させたり、謝罪・恫喝外交を続ける島津。

さらに、薩摩周辺の国全体を要塞化させて、待ち受ける島津。

徳川が攻め込んでくるならば、
大勢を地獄への道連れにしてくれるわ!

ついには、

島津を潰すのは、
デメリットが大きすぎる・・・

まあよい・・・
仕方ない・・・

家康に「島津取り潰し」を断念させるに成功させた島津家でした。

取り潰しを免れたどころか、一切の減封を免れたのは奇跡的でした。

それは、「鎌倉以来の島津家」の底力でした。

薩摩島津家を睨む井伊直弼

左上から時計回りに西郷隆盛、大久保利通、村田新八、桐野利秋(Wikipedia)

幕末風雲の際に猛烈な存在感を見せつける西郷隆盛・大久保利通たち。

彼らが、この異常とも言える「強烈な家風の藩」出身の人物であったことは重要な事実です。

井伊直政はこの時の島津との戦いでの負傷が致命傷となり、2年後に亡くなります。

なんと・・・・・

我が腹心の直政が、
こんなに早く死ぬとは・・・

はるかに年上の家康は健在でしたが、かなりガッカリしたことでしょう。

1615年大坂の陣のあとに、井伊家は佐和山18万石から彦根藩30万石に加増されました。

名実ともに、「徳川家の柱」となることを嘱望された井伊家。

そして、その井伊家に誕生した井伊直弼。

非常にプライドが高いのは当然でした。

我が井伊は
超名門!

そして、藩祖井伊直政のことを考える時、薩摩島津家に対して強い敵対感情を持っていたのは当然だったのです。

島津は、我が藩祖直政を倒した、
憎き奴ら・・・

徳川家及び御三家・譜代大名・外様大名という色分けがされている幕藩体制。

名門に生まれ、島津薩摩藩含む外様大名に対して、

薩摩や外様大名がうるさい・・・
お前たちは、ただの「外様」なのだ!

そもそも良い感情を持っていなかったのは、間違いないでしょう。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次