朝鮮侵攻の豊臣水軍を指揮した加藤嘉明〜李舜臣登場の大衝撃・日本で独自発展した鉄砲・朝鮮軍の内部抗争と李舜臣撃退・豊臣秀吉の死〜|松山城のたそがれ8・四国の歴史

前回は「朝鮮侵攻の兵站線を守った加藤嘉明〜緒戦の連戦連勝の行方・豊臣秀吉による天下統一・北条家の最後の抵抗・「信長の遺志」を引き継ぎ海外侵攻目論んだ秀吉〜」の話でした。

目次

朝鮮侵攻の豊臣水軍を指揮した加藤嘉明

松山城(新歴史紀行)

「現存12天守」の一つであり、剛直な名城・松山城を築城した加藤嘉明。

秀吉が、まだ羽柴秀吉だった頃から一生懸命武功を挙げ、羽柴家・豊臣家のために働きました。

太閤 豊臣秀吉(Wikipedia)

そして、ついに念願の天下統一を果たした豊臣秀吉。

次は
朝鮮・明だ!

朝鮮と明を
我が手にするのだ!

新歴史紀行
戦国大名・豊臣家重臣 徳川家康(Wikipedia)

「豊臣家の重臣」となっていた徳川家康たちは、

それは
お止めなされ!

と猛烈反対するも、秀吉は、

もうワシが
決めたのだ!

佐吉!
全て差配せよ!

戦国大名・羽柴家重臣 石田三成(Wikipedia)

はっ・・・
関白様のために、万全の計画練ります・・・

石田三成たち、後に五奉行と呼ばれる武将たちや大谷吉継たちが、万全の計画を練りました。

戦国大名 加藤嘉明(Wikipedia)

そして、主に後方支援が中心ながら、水軍をまとめる加藤嘉明。

私の後方支援・兵站線の確保で、
虎之助(加藤清正)たちが奮闘している。

虎之助(加藤清正)たちが
陸で戦えるのも、我ら水軍のおかげなのだ!

戦国大名 加藤清正(Wikipedia)

前線では猛烈な勢いで、加藤清正・小西行長たちが、朝鮮の奥深くまで攻め込んでいました。

これは「朝鮮軍が弱かった」のではなく、戦国期に戦い続けた日本の将兵が強かったのです。

この調子ならば、
朝鮮制圧は目前か・・・

少し楽観視していた加藤嘉明たちの諸将でした。

李舜臣登場の大衝撃:日本で独自発展した鉄砲

文禄の役(「戦国合戦大全」下巻 歴史群像シリーズ 学研)

そして、戦国期に日本に伝来した鉄砲。

当時、欧州で発展していた鉄砲は、日本に渡ってからは大きな変化を遂げていました。

鉄砲:種子島鉄砲館(新歴史紀行)

独自の鉄の加工技術によって、日本では大量生産が進んでいました。

鉄砲を打つために必要な「硝石」の国内生産がほとんどなく、輸入に頼る必要があった日本。

鉄砲製作:種子島鉄砲館(新歴史紀行)

そこが弱点でしたが、織田信長以来、堺や博多などの港経由の貿易で硝石などは賄いました。

戦国期から貿易が非常に栄えていたため、硝石も万全体制で確保出来ました。

順調に勝利を続ける日本軍に立ちはだかった、新たな朝鮮軍の将軍が登場します。

朝鮮軍提督・将軍 李舜臣(Wikipedia)

朝鮮の李舜臣将軍です。

おい!
お前ら、いい加減にしろ!

強力な水軍と、非常に優れた指揮官であった李舜臣に日本軍は苦戦します。

な、なんだ?!
今までの朝鮮軍とは全然違うぞ!

これは
手強いぞ!

押せ、押せ!
日本軍を倒せ!

豊臣水軍の総力を上げて、
戦うのだ!

我が朝鮮に攻め込む
不敵な奴らを倒せ!

李舜臣率いる水軍に苦戦を続けた日本軍。

何度か李舜臣軍に大きな打撃を受けましたが、なんとか持ち堪え続けた加藤嘉明軍。

小西行長たちの謀略に近い交渉によって、一度は休戦に至り、文禄の役は終了しました。

朝鮮軍の内部抗争と李舜臣撃退:豊臣秀吉の死

慶長の役(「戦国合戦大全」下巻 歴史群像シリーズ 学研)

一度は休戦して、平和が訪れると思われた中、明と日本で交渉がもたれました。

ワシを「日本国王に封ずる」
だと!?

ふざけるな!!
再度、朝鮮を攻めよ!

交渉プロセスにおいて、秀吉が激怒して再度戦争が始まってしまいました。

慶長の役が開始し、加藤嘉明たちは再び挑戦へ。

こうしている内に、朝鮮軍の内部抗争が勃発して、李舜臣は処罰の対象となる騒ぎに発展しました。

私は
李舜臣将軍と共に戦います!

内部抗争で処罰を受けた李舜臣でしたが、朝鮮軍での人気は抜群でした。

よしっ!
みんな一緒に日本を倒すぞ!

李舜臣軍は、さらに猛烈な勢いで日本水軍へ向かってきました。

李舜臣を
倒せ!

歴戦の士であった加藤嘉明らは、懸命に李舜臣を迎え撃ちました。

そして、加藤たちの奮戦で李舜臣撃退に成功しました。

なんとか李舜臣率いる水軍に勝った、加藤嘉明たち。

むう・・・
無念だ・・・

二度目の外征となる慶長の役では、朝鮮南部までで侵攻が止められます。

李舜臣は戦死し、日本水軍の勝利となりますが、大損害を被ります。

そして、加藤清正たちが奮戦するなか、日本で衝撃的な事態が発生しました。

あとは、
あとは頼む・・・

皆のもの・・・
徳川殿・・・

絶対君主だった秀吉が、亡くなってしまいました。

これでは、なんのために
朝鮮に攻め込んだのか・・・

秀吉の死を秘匿して、日本軍は撤退します。

このプロセスで、加藤・福島ら武断派と石田三成ら文治派の間に、「修復不可能な溝」が出来ました。

おのれ!
三成め!

松山城(新歴史紀行)
新歴史紀行

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