松山城のたそがれ 6〜豊臣家の水軍の柱〜

前回は「松山城のたそがれ 5〜水軍の将へ〜」の話でした。

松山城(新歴史紀行)

小早川隆景の寄騎として、水軍の将として成長してゆく加藤嘉明。

加藤 嘉明(Wikipedia)

当時、豊臣秀吉となっていた秀吉。

豊臣 秀吉(Wikipedia)

小西行長も
水軍が扱える。

小西 行長(Wikipedia)

しかも、行長は
佐吉(石田)とも仲が良い。

石田 三成(Wikipedia)

もう一人くらい、
豊臣家の水軍をまとめる人物が欲しい。

なんと言っても、将来は
唐入りするからな。

近い将来、朝鮮・中国に攻め込むことを既に考えていた秀吉。

それは、かつての主人であった織田信長の考えを継承したものでした。

織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

朝鮮半島から中国に攻め込むためには、水軍の強化は非常に重要です。

水軍の本家は、
小早川と九鬼。

小早川 隆景(Wikipedia)

隆景とワシは仲がよく、
小早川は豊臣に従うだろう。

九鬼嘉隆(Wikipedia)

九鬼ともワシは仲が良いが、
もともと九鬼は信長様の家臣。

つまり、ワシの同僚だった
家ゆえ、扱いが難しい。

やはり「元同僚」には、秀吉といえども遠慮してしまいます。

自分の生え抜きの家臣団で、「強力な豊臣軍団」の構築を急いでいた秀吉。

ワシの子飼いの武将で、
小西以外にもう一人、水軍の将に。

嘉明よ。
頼んだぞ。

ははっ!

後世、海軍と呼ばれる水軍。

当時は軍船と言っても、船とたいして変わらないレベルなので、水軍と呼ぶのでしょう。

小早川隆景の下で水軍を学び、小田原攻めなどでは、豊臣軍の水軍を率いた加藤嘉明。

もうすぐ30歳の若手武将でした。

水軍の第一人者だ!

徳川 家康(Wikipedia)

この頃、明確な秀吉の対抗馬であった徳川家康。

当然のことながら、家康もまた徳川軍団増強に力を入れていました。

しかし、秀吉はこの「徳川家増強」を防ぐために、徳川家を駿河・遠江・三河・甲斐・信濃から、関東へ移封します。

これで、徳川家は
弱体化するだろう。

屈強な三河武士を率い、比類ない強さを見せつけてきた徳川家。

住み慣れた浜松から、
ど田舎の江戸か・・・

全く土地勘のない地域へ、移封され、家康は

我が家も水軍を
増強したい。

旧武田家の家臣団で、
水軍の強者がいる!

しかし、当面は、
新しい領国の運営で手一杯だ。

家康がこの状況の中、加藤嘉明は豊臣家の水軍を束ねる人物として、急成長してゆきます。

そして、加藤清正・福島正則たちと並んで、豊臣家を支える立場になってゆきます。

加藤 清正(Wikipedia)

水軍では、
日本一を目指す!

若き加藤嘉明は、燃える心で成長してゆきます。

新歴史紀行

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