本能寺の変でさらに開けた加藤嘉明の運命〜三木城攻撃の一手の大将へ・「賤ヶ岳七本槍」の一人・加藤清正や福島正則との競争〜|松山城のたそがれ4・四国の歴史

前回は「播磨へ向かった加藤嘉明〜加藤嘉明の性格が反映された松山城の佇まい・三木城攻めで大活躍・飛躍のきっかけ・加藤虎之助と共にダブル加藤・羽柴家興隆へ〜」の話でした。

目次

三木城攻撃の一手の大将へ

羽柴家家臣 加藤嘉明(Wikipedia)

戦国武将の中で、それほど知名度は高くない加藤嘉明。

その加藤嘉明が築城した松山城もまた、それほど有名ではありませんが、実に味わい深い良い城です。

松山城(新歴史紀行)

この朴訥とした芯のある雰囲気は、築城した加藤嘉明の性格を色濃く反映しているのでしょう。

少し世代がずれますが、加藤嘉明が織田信長に仕えていたら、城主になるほど出世はしなかったでしょう。

羽柴様は
勢いがあって、これから伸びてゆきそうだ!

成り行きもあったでしょうが、おそらく羽柴秀吉の生き様に共感して、

秀吉様は、他の織田家の諸将とは
「何か」が全く違う!

そこに未来を見出した加藤嘉明。

1563年生まれの加藤嘉明は、1537年生まれの羽柴秀吉よりも26歳下です。

そして、秀吉の元で各地を転戦して武功を挙げて、着実に出征してゆきました。

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

武勇に優れ、実直な加藤嘉明は秀吉に重宝されます。

加藤嘉明は
若いが実によく働くな!

三木城完全包囲(歴史人2018年1月号 KKベストセラーズ)

三木城包囲戦では、
羽柴家の武将として一軍を率いたぞ!

1580年に開城に成功した三木城包囲戦では、まだ18歳(数え年、以下同様)ながら、一手の軍を率いるまで出世しました。

これは、もともと家来が全くいなかった羽柴家ならではの急な出世ですが、実際に加藤嘉明は優れた武将でした。

まだ20歳にもなっていない加藤嘉明は、

これから、織田家が天下を統一し、
羽柴家はますます成長する!

私もさらに一生懸命
頑張ってみせるぞ!

こう考えて、未来を見据えていたのでした。

本能寺の変でさらに開けた加藤嘉明の運命

本能寺の変 1(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

順調に備中を攻略していた羽柴秀吉軍に、大きな一報が入ります。

本能寺の変勃発です。

な、なにっ!
上様が!!

全軍で明智光秀を
倒しに向かうぞ!

織田家重臣:明智光秀と羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、中国大返しした羽柴軍に加藤嘉明も従軍します。

信長様が明智に殺されて
しまった・・・

これから、織田の家は
どうなるのであろうか・・・

羽柴秀吉 中国大返し 2(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

後世からみれば、鮮やかすぎて謎に満ちている秀吉の「中国大返し」。

実際には、羽柴軍の将兵たちも不安だったでしょう。

なあ、俺たち、明智軍と戦うらしいが
勝てるのか?

さあな・・・
我が軍も多いが、明智は近畿を押さえているからな・・・

こんな空気の中、秀吉はとにかく突き進みました。

とにかく、一日でも早く
京へ!

そして、姫路城付近で秀吉は思い切った策に出ました。

全ての金銀兵糧を
将兵に配れ!

重大な合戦を前に、金銀兵糧を部下将兵に分け与えてしまいました。

もう、明智に勝つか負けるか、
これしかないのだ!

このスケールの大きさには、20歳の加藤嘉明たち将兵たちも色めきだちました。

これは、羽柴様が
明智に勝てるのでは!

明智光秀との最後の決戦となった山崎の合戦は、

よしっ!
我が軍の勝利だ!

いとも易々と明智軍を圧倒して、羽柴軍は勝利しました。

そして、この合戦で加藤嘉明も大いに武勇を振るい、さらに加増されました。

明智軍を
倒したぞ!

「賤ヶ岳七本槍」の一人:加藤清正や福島正則との競争

柴田 勝家と羽柴 秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

清洲会議で事実上織田家の後継者となった秀吉。

次には柴田勝家と対峙します。

なんで、猿(秀吉)なんかが
のさばっているんだ!

柴田殿、私は
明智を討って、上様の仇をとりましたぞ!

くっそー!
今に見てろよ!

そして、賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉と柴田勝家が雌雄を決しすることになりました。

権六(柴田)の軍勢は、
強力な武将が多いぞ!

実際、柴田勝家以外にも佐久間盛政など歴戦の猛将が大勢いた柴田軍。

単なる「軍事力」では、柴田軍に分がありますが、

今度は、美濃から
「大返し」だ!

この時に、「賤ヶ岳七本槍」の一人として、加藤清正・福島正則らとともに名をあげた加藤嘉明。

ついに、羽柴家
七本の指に入った!

羽柴家家臣 加藤清正(Wikipedia)

よしっ!
虎之助(加藤清正)には5000石!

ははっ!
有難き幸せ!

よしっ!
市松(福島正則)には3000石!

この後、加藤清正・福島正則が急速に出世してゆくのに対して、加藤嘉明たちは少し出遅れます。

これは、加藤嘉明が「加藤清正たちより劣っていた」が理由ではありません。

主な理由は、加藤・福島らが尾張出身で「秀吉・おねの方に長年仕えていた」からです。

羽柴家家臣 福島正則(Wikipedia)

特に福島正則に至っては、秀吉の身近な血縁者でした。

俺も
頑張っているのに・・・

虎之助(加藤)や、市松(福島)ばかり
優遇されて・・・

ちょっとボヤく加藤嘉明。

ところが、剛直な加藤嘉明は、

益々
頑張るぞ!

と秀吉に尽くす方針を貫きます。

そして、秀吉は急速に出世してゆき、日本の帝王(関白)目指して猪突猛進してゆきました。

加藤清正や福島正則と競争しながら、

俺も
とにかくガムシャラだ!

秀吉の「ガムシャラ」さを身近で学んだ加藤嘉明もまた、必死に働いて秀吉と共に急成長してゆきます。

松山城(新歴史紀行)
新歴史紀行

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