本能寺の変の黒幕の存在〜羽柴秀吉と徳川家康と近衛前久・キリシタン勢力と織田信長の関係・ルイスフロイスの報告書・山崎の戦いの実像・キリシタン大名高山右近の奮戦〜|本能寺の変2・戦国時代の終焉

前回は「世界情勢と本能寺の変〜日本史と世界史・光秀と信長の本当の関係・怨恨説とイエズス会・織田家筆頭だった明智光秀〜」の話でした。

織田信長と明智光秀(新歴史紀行)
目次

本能寺の変の黒幕の存在:羽柴秀吉と徳川家康と近衛前久

本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

本能寺の変に関しては、昔から様々な説があります。

明智光秀が「なぜ謀反を起こしたのか?」の理由。

それは、怨恨説や将来不安説、「国替えを命ぜられた」説、長宗我部との連携説など数多く語られてきました。

または、裏で羽柴秀吉が、あるいは徳川家康が関わっていたという黒幕説。

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

当時、信長と朝廷が非常な緊張関係にありました。

朝廷側の近衛前久たちが、「裏で光秀をそそのかしていた」説もあります。

歴史好きにとっては、興味のつきない話題であります。

以前は、日本国内で「黒幕はいたのか?」「光秀の立場は?」などの話が多かった「大事件」。

最近はキリシタン・南蛮=スペイン・ポルトガルなどとの関係に触れている本が多く出版されています。

中には、とても興味深い論考もあります。

キリシタン勢力と織田信長の関係:ルイスフロイスの報告書

キリシタン教会と本能寺の変(浅見雅一著)

最近読んだ「キリシタン教会と本能寺の変」は、新たな解釈があります。

「本能寺の変とキリシタンとの関係」あるいは「宣教師たちからの視点」が描かれています。

特に「ルイス・フロイスの報告書」は、一つの資料として、興味深い。

歴史は、一次資料を読み解く事が大事です。

本能寺の変前後の書物は、公家たちの日記や秀吉が書かせた「惟任退治記」など沢山の資料があります。

それらの資料の信憑性の高さは、実に様々です。

これだけ大きな政変に関する記事は、どうしても本人の立場や考え方・世間との関わり、等沢山の要素があります。

歴史家A

どの資料が、
信用が高いか?

「資料の信頼性」は難しい判断となり、歴史家の方々の間でも意見が割れています。

本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

山崎の戦いの実像:キリシタン大名・高山右近の奮戦

山崎合戦図(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

この本で面白かったのは、フロイスの「信長の死について」という報告書です。

同報告書内で、

フロイス

(キリシタンの)高山右近が、
明智光秀の軍勢を破った・・・

「高山右近が光秀軍を破った」という記述があります。

「キリシタン贔屓」であり「キリシタン・ファースト」だったフロイス。

この「フロイスの立場」を、大いに割り引いて考えなければなりません。

摂津に領地があり、キリシタンに大きな影響力を持っていた高山右近。

高山が「当時どのように動いていたのか」の一つの資料として興味深いです。

織田家家臣 高山右近(Wikipedia)

秀吉の「中国大返し」は、

歴史家B

物理的に
ありえない!

歴史家B

事前に本能寺の変が、
起こるのを知らないと絶対に不可能!

「事前に秀吉が本能寺の変を知っていた」という意見があります。

確かに、2万人もの軍勢の兵站・兵糧等を考えると、かなり難しい点があります。

羽柴秀吉 中国大返し 1(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

僕は、「秀吉自身が京都に急遽舞い戻ることが最重要で、実際の兵力はもっと少なかったのでは」と考えています。

「毛利家と密約ができていた」という説もあります。

比較的実直な家風の毛利家といえども、盟約の反故が日常茶飯事であった戦国時代。

毛利に対して秀吉は、秀吉はある程度の兵力を、備中や播磨に残さざるを得なかったと考えます。

羽柴秀吉 中国大返し 2(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

具体的には1万人程度を毛利の押さえに残していて、

羽柴秀吉

毛利への備えは、
念の為、ある程度残しておき・・・

半分程度の1万人ほどで山城の明智光秀めがけて進撃したのではないか。

羽柴秀吉

残る全員は、
山崎の明智目指すのだ!

半分の1万人でも、兵站線の維持・兵糧の手配は大変なことです。

羽柴秀吉 中国大返し 3(歴史道vol.13 朝日新聞出版)
羽柴秀吉

上様の
弔い合戦のために・・・

羽柴秀吉

駆けに駆けて、
光秀めを倒しに向かったのだ!

この秀吉の「桁外れの行動」を可能にしたもの。

それは、秀吉自身の卓抜たる能力と、補佐する武将たちの高い能力がありました。

「西国の情報・兵站を全て信長から任されていた」秀吉。

「特に情報において、織田家随一の権限があった」のが、当時の織田家における秀吉だったのでしょう。

次回は上記リンクです。

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