前回は「世界情勢と本能寺の変〜日本史と世界史・光秀と信長の本当の関係・怨恨説とイエズス会・織田家筆頭だった明智光秀〜」の話でした。

本能寺の変の黒幕の存在:羽柴秀吉と徳川家康と近衛前久

本能寺の変に関しては、昔から様々な説があります。
明智光秀が「なぜ謀反を起こしたのか?」の理由。
それは、怨恨説や将来不安説、「国替えを命ぜられた」説、長宗我部との連携説など数多く語られてきました。
または、裏で羽柴秀吉が、あるいは徳川家康が関わっていたという黒幕説。

当時、信長と朝廷が非常な緊張関係にありました。
朝廷側の近衛前久たちが、「裏で光秀をそそのかしていた」説もあります。
歴史好きにとっては、興味のつきない話題であります。
以前は、日本国内で「黒幕はいたのか?」「光秀の立場は?」などの話が多かった「大事件」。
最近はキリシタン・南蛮=スペイン・ポルトガルなどとの関係に触れている本が多く出版されています。
中には、とても興味深い論考もあります。
キリシタン勢力と織田信長の関係:ルイスフロイスの報告書

最近読んだ「キリシタン教会と本能寺の変」は、新たな解釈があります。
「本能寺の変とキリシタンとの関係」あるいは「宣教師たちからの視点」が描かれています。
特に「ルイス・フロイスの報告書」は、一つの資料として、興味深い。
歴史は、一次資料を読み解く事が大事です。
本能寺の変前後の書物は、公家たちの日記や秀吉が書かせた「惟任退治記」など沢山の資料があります。
それらの資料の信憑性の高さは、実に様々です。
これだけ大きな政変に関する記事は、どうしても本人の立場や考え方・世間との関わり、等沢山の要素があります。

どの資料が、
信用が高いか?
「資料の信頼性」は難しい判断となり、歴史家の方々の間でも意見が割れています。


山崎の戦いの実像:キリシタン大名・高山右近の奮戦


この本で面白かったのは、フロイスの「信長の死について」という報告書です。
同報告書内で、



(キリシタンの)高山右近が、
明智光秀の軍勢を破った・・・
「高山右近が光秀軍を破った」という記述があります。
「キリシタン贔屓」であり「キリシタン・ファースト」だったフロイス。
この「フロイスの立場」を、大いに割り引いて考えなければなりません。
摂津に領地があり、キリシタンに大きな影響力を持っていた高山右近。
高山が「当時どのように動いていたのか」の一つの資料として興味深いです。


秀吉の「中国大返し」は、



物理的に
ありえない!



事前に本能寺の変が、
起こるのを知らないと絶対に不可能!
「事前に秀吉が本能寺の変を知っていた」という意見があります。
確かに、2万人もの軍勢の兵站・兵糧等を考えると、かなり難しい点があります。


僕は、「秀吉自身が京都に急遽舞い戻ることが最重要で、実際の兵力はもっと少なかったのでは」と考えています。
「毛利家と密約ができていた」という説もあります。
比較的実直な家風の毛利家といえども、盟約の反故が日常茶飯事であった戦国時代。
毛利に対して秀吉は、秀吉はある程度の兵力を、備中や播磨に残さざるを得なかったと考えます。


具体的には1万人程度を毛利の押さえに残していて、



毛利への備えは、
念の為、ある程度残しておき・・・
半分程度の1万人ほどで山城の明智光秀めがけて進撃したのではないか。



残る全員は、
山崎の明智目指すのだ!
半分の1万人でも、兵站線の維持・兵糧の手配は大変なことです。





上様の
弔い合戦のために・・・



駆けに駆けて、
光秀めを倒しに向かったのだ!
この秀吉の「桁外れの行動」を可能にしたもの。
それは、秀吉自身の卓抜たる能力と、補佐する武将たちの高い能力がありました。
「西国の情報・兵站を全て信長から任されていた」秀吉。
「特に情報において、織田家随一の権限があった」のが、当時の織田家における秀吉だったのでしょう。
次回は上記リンクです。