島津と龍造寺の激突をチャンスと考えた立花道雪〜大友宗麟が「考えもしなかった」龍造寺の勢力大拡張・龍造寺と島津の大激突へ〜|立花道雪11・能力・人物像・エピソード

前回は「のけ者にされた大友家と立花道雪〜完全に覇気を失った「九州の覇王」・異常に優れていた龍造寺の家臣団・島津と龍造寺の激突へ〜」の話でした。

立花道雪(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

大友宗麟が「考えもしなかった」龍造寺の勢力大拡張

戦国大名 大友宗麟(Wikipedia)

かつての「九州の帝王」大友家を無視して、激突し始めた島津家と龍造寺家。

島津家は「鎌倉以来の守護」の家柄で、高い格式を持っています。

新歴史紀行
1559年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

それでも、島津も龍造寺も大友家が最盛期だった頃で比較すると「はるかに小さな勢力」でした。

龍造寺家に至っては、大友の従属大名でした。

ところが、慢心から「今山の戦い」で龍造寺に大敗を喫した大友家。

急速に龍造寺隆信率いる龍造寺家に領土を侵食されます。

もはや主客転倒した状況でした。

まさか、龍造寺の下風に
立たされるとは・・・

龍造寺と島津の大激突へ

1580年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

大友の従属大名だった龍造寺は反旗を翻し、次々と領土を蚕食しました。

そして、「西から龍造寺、南から島津」に攻め立てられて大友家。

瞬く間に、大きく勢力を減少してゆきました。

1580年頃には「勢力が大きく落ちた」とは言え、肥後・筑後に勢力を持っていた大友家。

1582年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

本能寺の変が勃発した1582年頃には、「豊後と豊前の一部」まで勢力が後退してしまいました。

九州随一であった
我が大友家が・・・

その最中、睨み合っていた龍造寺と島津が激突します。

戦国大名 龍造寺隆信(Wikipedia)

おのれ、有馬め!
我が龍造寺を裏切りおって!

傘下の有馬氏の謀反に激怒した龍造寺隆信。

血祭りに
あげてやるわ!

大友家・島津家と比較すると、元々守護でもない龍造寺家。

もはや大友より
龍造寺の方が巨大だわ!

・・・・・

龍造寺は、あまりに急速に膨張しすぎました。

それは龍造寺隆信の戦闘能力・カリスマ性が大きな要因でした。

さらに、龍造寺四天王など、軍事能力が際立っていた有力家臣の力です。

龍造寺家重臣 鍋島直茂(Wikipedia)

中でも、補佐する鍋島直茂が日本有数の優れた武将であったことが最大の要因でした。

急速に勢力を拡大したとはいえ、龍造寺隆信の直接の家臣ばかりではなく、多くは有力な国人たちです。

背いた有馬晴信を放っておけば、さらに離反を招きかねません。

ここは俺が直々に
出かけて行って・・・

有馬晴信を血祭りに
あげてくれる!

龍造寺隆信は、自らの出馬を決めます。

島津と龍造寺の激突をチャンスと考えた立花道雪

島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

対する島津家。

旭日のごとき勢いの龍造寺家に、どう当たるか。

龍造寺家は、当主の龍造寺隆信を総大将に総力を挙げた25,000の大軍を動員します。

対して、島津家は当主島津義久の末弟であった島津家久率いる3,000の軍勢。

日の出の勢いの龍造寺軍25,000に対して、島津軍は1/8ほどの3,000しかありません。

島津家が、著しく劣勢である状況でした。

さすがに、この兵力差では、
島津は戦いようがないのではないか・・・

龍造寺が島津と
戦っている間に・・・

龍造寺に侵食された領土を
少しでも奪い返すのだ!

これをチャンスと捉えた立花道雪。

これは
我が島津の大チャンスなのだ!

圧倒的劣勢の中、島津義弘はチャンスを見出しました。

かつて、極めて劣勢の中、伊東氏と戦って撃破した経験を持つ闘将・島津義弘。

その流れを汲んでいた猛将・島津家久は、決戦を試みました。

新歴史紀行

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次