一気に凋落した大友家〜格下大名龍造寺に西から領土を侵食された大友家・智勇兼備の勇将鍋島直茂・九州随一の知謀を持つ男〜|立花道雪9・人物像・エピソード

前回は「大友家の武雷神・道雪の咆哮〜大局観と強い政治力を持っていた大友宗麟・致命傷を受けた大友家・島津家との決戦で大惨敗〜」の話でした。

立花道雪(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

一気に凋落した大友家

1570年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

一時は九州の6割ほどを領土にし、六カ国の守護を兼ねた大友宗麟。

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1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

戦国時代中期の1555年頃には、各地に大勢力が誕生していました。

東海地方では超名門今川家が100万石間近の大領土を有し、今川と同盟を結んだ武田・北条も大勢力でした。

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戦国大名 武田 晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

我が武田は
清和源氏の一門で超名門だ!

そして、甲斐守護であり、
他の守護代や守護代ですらない連中とは違う!

この頃の大大名には三好や上杉もいますが、彼らは守護出身ではなく「格下」です。

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戦国大名 大友宗麟(Wikipedia)

我が大友は
元々豊後守護であり・・・

さらに強大な勢力ゆえ、
筑後などの守護も兼ねたのだ!

数少ない「守護出身の戦国大名」の一員であり、早い時期から南蛮などの海外とも交易をした大友宗麟。

その政治力は卓抜たるもので、武田信玄や北条氏康と比べても劣るものではありませんでした。

ところが、龍造寺に続き、島津家にも「まさか」の大敗を喫した大友家。

もはや、弱体化は誰の目からも明らかでした。

まさか・・・
まさか我が大友が・・・

格下大名・龍造寺に西から領土を侵食された大友家

1582年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

そして、元々は大友家に従属していた龍造寺が牙を剥いて、肥前を根拠地に暴れまくりました。

そもそも、「鎌倉以来の守護」である大友・島津と比較すると「守護代ですらない」龍造寺。

国人・国衆出身の龍造寺は、元は肥前の有力大名・少弐氏の有力家臣でした。

つまり、大友・島津からすれば「遥か格下」の存在であった龍造寺。

戦国大名 龍造寺隆信(Wikipedia)

確かに、我が龍造寺は
守護代ですらない家柄だ・・・

だが、それが
どうかしたか!

今は実力こそが
物を言う時代なのだ!

猛烈な軍事力を持つ龍造寺隆信には、成松信勝ら龍造寺四天王と呼ばれる猛将たちが控えていました。

よしっ!
成松信勝、百武賢兼よ、ゆけ!

「肥前の熊」龍造寺隆信に率いられた、成松信勝たち「猛獣軍団」は九州を席巻しました。

中でも、龍造寺軍の中核として際立った武功をあげ続けた百武賢兼は、

お主の武勇は、
百人並みだのう・・・

今後は「人並み勇」ゆえ、
百武と名乗るが良い!

ははっ!この百武賢兼、
隆信様にどこまでもついてゆきます!

このように、異常に際立った武勇と軍事能力を持った武将たちが龍造寺家に集まっていました。

龍造寺軍の
猛将たちの軍事能力は侮れん・・・

龍造寺軍のパワーは、百戦錬磨の立花道雪といえども、押されるほど凄まじいものでした。

猛烈な勢いを見せる龍造寺軍に対して、西から大友家はどんどん侵食されます。

はっは〜!
この隆信に続け!

ワシについて来れば、
どんどん領土が増えるぞ!

我が龍造寺に
敵なし!

智勇兼備の勇将・鍋島直茂:九州随一の知謀を持つ男

龍造寺家重臣 鍋島直茂(信生)(Wikipedia)

この「熊と猛獣」たちの龍造寺家は、猛烈な軍事力だけではなく、一人の際立った智勇兼備の将がいました。

鍋島直茂(信生)です。

私は軍事も政治も知謀も際立った
智勇兼備の将なのだ!

しかも、龍造寺隆信の母親・慶誾尼は、

直茂は優れた人物だから、
我が龍造寺家の柱になって欲しい・・・

こう考えた強引な性格の慶誾尼は、

私は直茂の父・清房の継室と
なります!

鍋島家に乗り込んで強引に「後妻」に収まった慶誾尼の「知略」によって、

隆信様と
私は義兄弟なのだ!

鍋島直茂と龍造寺隆信は義兄弟となりました。

直茂の知略と政治力があれば、
百人力!

猛烈な軍事力を持つ龍造寺家において、ポッカリと空いていた政治・知謀面を直茂が支えました!

隆信様の、
軍事能力は隔絶している。

これは、ひょっとしたら、
龍造寺の世になるかもしれぬ!

私も
大いに働こう!

1582年の勢力図では道雪の本拠地・筑前付近は大友家の領土で良いように思います。

猛烈な勢いの龍造寺に、多数の国人たちが加わっていたので、曖昧な表現となっています。

このまま西から龍造寺が、南から島津が攻め込んできて、もはや大友家は「保たない」と考えられていました。

それほど猛烈かつ苛烈な勢いだった、、島津と龍造寺。

まさか、九州の超名門である、
我が大友が・・・

こんなにも
追い込まれるとは・・・

島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

しかし、強いもの同士はぶつかり合うのが歴史の必然です。

凋落した大友には
用はないわ!

な、
なんだと・・・

「大友など関係ない」とばかりに、睨み合う島津と龍造寺。

激突するのは、時間の問題でした。

九州屈指の我が
大友家が・・・

そしてその2家の前では「霞んでしまう」感じの、かつては「九州の帝王」だった大友家でした。

「格下」だったはずの龍造寺から既に「格下扱い」されていた大友。

なんとか
挽回できぬか・・・

必死に、大友家の復活目指して戦う道雪でしたが、明らかに「斜陽に向かうしかない」状況の大友家でした。

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