近畿軍団長に出世した明智光秀〜明智と細川と筒井・異常な出頭人羽柴秀吉すら嫉妬した光秀・織田家の中核から軍団長になった柴田勝家と佐久間信盛〜|明智光秀9・人物像・軍事力・エピソード

前回は「織田家の中枢にのし上がった明智光秀〜「足利と織田をつなぐ男」から近畿管領へ・謙信と信長の決戦「手取川の戦い」と「光秀不在」の織田軍〜」の話でした。

明智光秀(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

異常な出頭人・羽柴秀吉すら嫉妬した光秀

織田家重臣 羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

地下人から異常な出世を果たした、羽柴秀吉。

俺はこの世の最底辺から
登り続けているのだ!

織田家だからこそ「信じられない出世」を果たした秀吉。

まだまだ
上を目指すのだ!

ところが、その秀吉すらすら嫉妬心を感じるほど、信長に気に入られつつあったのが明智光秀でした。

室町幕府第十五代将軍 足利義昭(Wikipedia)

1568年に「将軍になりうる貴人 足利義昭の使者」として、岐阜にやってきた光秀。

私は足利義昭様の
使いで御座います・・・

そして、当初は身分が低かったとはいえ、数少なかった足利家の近臣の一人だった光秀。

その卓抜たる能力もあり、「織田と足利をつなぐ男」としての地位を確固たるものにしました。

確かに光秀は
足利家との関係があるが・・・

「織田と足利をつなぐ男」として
光秀が価値が高いのは分かる・・・

ところが、明智光秀は「織田家内部での立場」も急上昇しました。

ところが、
織田家内部の光秀の立場は・・・

「織田と足利をつなぐ男」とは
別にどんどん高まっている・・・

そして俺より9歳
年上だが・・・

光秀ばかり
目立ちおって!

異常な出頭人であった秀吉すら、光秀に対しては大きな嫉妬をしていたのでした。

織田家の中核から軍団長になった柴田勝家と佐久間信盛

織田家重臣 柴田勝家(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

長篠の合戦当時、織田家で大軍団を率いていた柴田勝家と佐久間信盛。

柴田と佐久間は、桶狭間以前からの織田家の中核を成してきました。

戦国大名 上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

柴田は北陸から上杉謙信に対峙する、大きな務めを任されます。

そして、北陸軍団の軍団長を命ぜられた柴田勝家。

謙信は強敵ですが、
権六にお任せを!

そして、長らく織田家に尽くし、ずっと中核を占めた佐久間信盛。

織田家重臣 佐久間信盛(Wikipedia)

私は尾張土豪出身で、
信長様をずっと支えてきたのだ!

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戦国大名 織田 信長(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

佐久間は大坂の本願寺を、叩き潰すように信長から司令を受けます。

佐久間よ、
一向宗を皆殺しにせよ!

お任せ
ください!

一向宗門徒を、
兵糧攻めにして、降伏させるのだ!

そして、近畿周辺の大軍団が佐久間信盛の寄騎として預けられました。

最盛期には、数万人の大軍勢を率いた「近畿軍団長」を務めた佐久間信盛。

本願寺法主 本願寺顕如(Wikipedia)

この
仏敵どもめが!

あまり積極的な攻撃ができないものの、佐久間は頑強な大坂本願寺を大軍勢を統率して、囲みます。

名前生年(一部諸説あり)
織田信長1534年
林秀貞1513年
柴田勝家1522年
滝川一益1525年
佐久間信盛1528年
明智光秀1528年
丹羽長秀1535年
羽柴秀吉1537年
織田信長と織田家重臣の生年

この頃、最長老の林秀貞は別格として、最年長の柴田勝家を頂点に織田軍団は構成されていました。

近畿軍団長に出世した明智光秀:明智と細川と筒井

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戦国大名 武田勝頼(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

そして、1575年に織田信長は、長年の宿敵である武田勝頼と決戦しました。

織田と武田の双方の運命を決定づけた長篠の合戦です。

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長篠合戦図(図説豊臣秀吉 戎光祥出版 柴裕之編著)

織田家オールスターが投入された長篠の合戦では、明智光秀は「京を守る」立場でした。

光秀よ・・・
京を押さえよ!

光秀は「柴田でも佐久間にも任せることができない重責」を、信長から命ぜられました。

そして、見事に長篠合戦前後の「織田の西の備え」の仕事を完了します。

信長の覚えはさらにめでたくなり、機嫌良く京都へ帰ってきた信長から労われたでしょう。

光秀よ・・・
よくぞ、京を抑えた!

ははっ〜!
有難き幸せ!

そして、佐久間・柴田に続く方面軍、かつ中央を占める軍団を信長から任されました。

光秀よ・・・
近畿を制圧する軍団長となれ!

わ、私が、
近畿を!

はっ、
粉骨砕身努めます!

上様は、
私を最も重用してくださっている・・・

佐久間・柴田と同格の宿老 滝川一益はまだ軍団長ではありません。

織田家重臣 滝川一益(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

長年、信長様に支え、
多数の武功を挙げているのに・・・

この時、信長が佐久間追放は、まだ考えてなかったと思われます。

佐久間は本願寺を、
光秀は丹波・丹後を制圧せよ!

佐久間は対本願寺の
軍団長であり・・・

光秀は幕府や朝廷との
関係もあるから、近畿を任せる!

1580年の佐久間信盛追放後には、その麾下の大名の多くが光秀に配属されます。

光秀は、仲の良い細川藤孝らと共に丹波攻略の重責を任されます。

丹波平定後の光秀の領地(図説明智光秀 柴裕之編著 戎光祥出版)

武田家に致命傷を与えた信長はいよいよ、織田家による天下統一後を具体的に考えます。

後に光秀軍団は、のちの佐久間信盛追放の影響もあり、急速に増強されました。

細川・筒井と明智の特殊な関係を考えた時、非常に適切な軍団配置でした。

すなわち、長らく大和の主であった筒井。

興福寺など、やっかいな仏教勢力を押さえつけるのに最適な人物でした。

織田家重臣 細川藤孝(幽斎)(Wikipedia)

丹波・丹後方面に、知名度の高い細川家の、細川藤孝に納めさせるのもまた、最適です。

信長に仕え始めた頃の光秀は、足利義昭と信長の両属的立場でした。

そもそも、「足利と織田をつなぐ男」としての役目から重用されていた光秀。

途中で、足利義昭から離れて、主人に信長を選びます。

そそっかしい義昭様から、
離れて良かった・・・

そして、その後に京から追放された現将軍の足利義昭。

信長めに
追放されたわ!

織田家に仕え始めて8年。

この間、光秀を誰よりも見続けてきた信長は、その巨大な能力とセンスに気づきます。

光秀めは、他の武将にはない
優れた素質がある。

軍事に政治に知略に、と全て揃った明智光秀。

光秀に近畿は任せ、いよいよ
余は日本の覇王・皇帝を目指すのだ!

光秀は、さらなる飛躍を始めようとしていました。

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