前回は「明智光秀と羽柴秀吉〜坂本城と長浜城・優美極まりない坂本城のイメージ・ルイス・フロイスの視点二人の関係・「途中組」の二人〜」の話でした。
織田家における明智光秀と羽柴秀吉の立場
共に「中途入社組」と言われる明智光秀と羽柴秀吉。
それは、織田家譜代の家臣である柴田勝家や佐久間信盛に対して、「もともと織田家とは無関係」という意味です。
名前 | 生年(一部諸説あり) |
織田信長 | 1534年 |
柴田勝家 | 1522年 |
丹羽長秀 | 1535年 |
羽柴秀吉 | 1537年 |
明智光秀 | 1528年 |
滝川一益 | 1525年 |
1537年生まれで、信長より3歳年下の羽柴秀吉。
いつから信長に仕えたのかは諸説ありますが、20歳頃から織田家に支えていたと思われます。
それ以前の羽柴秀吉は木下藤吉郎という名前でしたが、この名前も元々あったのか定かではありません。
いずれにしても、針売りなどの行商をしたり、今川義元家臣の松下嘉兵衛に仕えていた時期もあった秀吉。
松下嘉兵衛に仕えていたとはいえ、非常に短い期間で織田家に移りました。
この意味では「譜代の家臣ではない」ものの、「途中入社組」ではなくバリバリの若い頃から「織田家一筋」の秀吉。
対して、1528年生まれの明智光秀は「諸国を放浪して学問を学んだ」と言われますが、非常に疑わしいです。
諸国放浪には多額の費用が必要であり、光秀がそうした多額の路銀を持っていたとは思えません。
美濃の明智城を有していた明智家出身と言われる光秀ですが、それも不透明な点があります。
実態としては、勉学や武芸に励みながらも、なんとか越前・朝倉家で仕えていたのでしょう。
そして、越前朝倉家に寄宿していた足利義昭(当時は義秋)の家臣の一人となりました。
最初は「細川藤孝の家臣であった」という説が有力な光秀。
実際に、将軍となる義昭の家臣の一人に「足軽・明智」という記録が残っています。
この「足軽」は、少し後から一般的になる「雑兵」という意味ではなく「身分が軽い家臣」です。
明智殿、我らと共に
義秋(義昭)様を盛り立ててゆこうぞ!
ははっ!
細川様!
名家出身である細川藤孝の家臣として、メキメキ頭角を現したのちに、織田家に移籍しました。
この意味では、完全な「途中入社組」であったのが光秀です。
そして、「足利家と織田家の窓口」として「幕臣に準ずる立場」でバリバリ働いた光秀。
軍事に政治にと、全てにおいて万能型であった光秀を信長は大変重宝しました。
羽柴秀吉誕生:柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ
長篠の合戦が起きた1575年当時、天下に知られた織田家の要は、柴田勝家と丹羽長秀だったでしょう。
当時「木下藤吉郎」と名乗っていた秀吉。
藤吉郎では足軽みたいだ。
そろそろ、かっこいい名前にしなければ!
柴田様、丹羽様のようになりたいので、
一字ずつ頂きたく思います!
ふんっ!
おべっか使いの猿めが!
出頭人である秀吉殿の名前に
して頂くのは、嬉しいことですな・・・
当時、織田家で最も勢いのあった柴田・丹羽からそれぞれ一字をもらって、羽柴秀吉と名乗ります。
今日から、俺は木下ではなく
羽柴秀吉だ!
その柴田・丹羽以外には、長年の宿老である佐久間信盛・林秀貞がいます。
さらに歴戦の士であり、宿老格でもある滝川一益・池田恒興が、柴田・丹羽・林・佐久間に次ぎます。
立場はもう少し軽いものの、佐々成政・前田利家などの「血筋も良い」若手軍団もいます。
そして、信長お気に入りだった河尻秀隆も見逃せません。
彼らがガッチリ上層部を抑えていました。
この優れた人物が目白押しだった織田家で、のし上がっていくのは大変なことでした。
頑張って
信長様に益々認めてもらう!
名前を変えて、さらに意気揚々とひたすら励む秀吉でした。
織田家ならではの超抜擢人事:織田四天王
織田家中途組と言われることが多い秀吉。
しかし、なんと言っても20代半ばから織田信長に仕えているので、古参の武将です。
「経歴など関係なく、能力に応じて人材抜擢した」と言われる織田信長。
能力こそ
全てだ!
能力が高く、私につくす者は、
どんどん抜擢するぞ!
織田四天王(一般的意味)の4名のうち、羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益の3名がいずれも「身元不明の人物」です。
これは、織田家ならではのことで、他の家では到底考えられない状況です。
武田四天王の山県・馬場・内藤・高坂(春日)は名門出身でない方もいるとはいえ、「身元は明瞭」です。
身元が不明であろうと、なんであろうと、
余に必死に仕えて働く人物が大事だ!
それゆえの「抜擢人事」ですが、「織田家最強」が確定するまでの織田家勃興期。
信長は、しっかりと古来の家臣である柴田・丹羽・佐久間・林を非常に重視していたのです。
まずは譜代の柴田・丹羽・佐久間・林が
最重要で、織田家の要だ!
それはまた、組織運営上当然のことでした。
有能な先輩方が多数おり、分厚い家臣団を形成している織田家において、光秀・秀吉は懸命に働きます。
どんどん軍功をあげて、
信長様に認めてもらうのだ!
信長様に最も尽くしているのは、
この秀吉だ!
後の歴史から、羽柴秀吉と明智光秀ばかりに焦点があたりがちな織田家臣団。
実際には、譜代をコアとして、新参者の秀吉・光秀・一益たちが重厚な布陣をなしていました。
余に
ついてくるのだ!
それらの「モザイク状態の家臣団」を強烈な個性を持つ大天才・織田信長が引っ張ってゆきました。
この後、織田家は、秀吉も光秀も仕官した当時「夢にも思わなかった」ほど急速な大膨張を遂げます。
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