前回は「明智光秀の性格〜雰囲気・明智光秀と羽柴秀吉と織田信長・国盗り物語のイメージ・比叡山焼き討ち・積極的に焼き討ちに参加した光秀〜」の話でした。
明智光秀と羽柴秀吉:坂本城と長浜城

今回は「光秀と秀吉」を、考えてみます。

「歴史人」に、同様の特集があります。
本書では、ほぼ毎年両者を「独自の視点」で採点して優劣をつけています。
両者の生い立ち、そして織田家が急成長してゆく1570年頃から、本能寺の変までの期間が対象です。
なかなか面白い論考ですので、ぜひご一読下さい。
本書には、光秀の坂本城、秀吉の長浜城が出ています。

坂本城は、非常に優美なイメージです。
「優美なイメージ」と言っても、本能寺の変後に全焼してしまった坂本城。
発掘調査が進むも、「元の坂本城は、ほとんどは琵琶湖に水没している」状況です。
そのため、この「優美なイメージ」は、多分に「光秀に対するイメージ」に依拠しています。
対する長浜城は、同時期で琵琶湖畔という似た立地ながら、割合普通な感じです。

優美極まりない坂本城のイメージ:ルイス・フロイスの視点

当時、ルイス・フロイスが、

坂本城は、安土城に次ぐ
優美な城郭建築だ・・・
このように表現していることが、非常に大きな影響を持っていると考えます。


基本的に、明智光秀に対しては「辛辣な姿勢」を貫くルイス・フロイス。
そのルイス・フロイスが「ベタ褒め」している坂本城の当時の「美しき威容」が、偲ばれます。
「当時の欧州にすらなかったレベル」の豪華絢爛な安土城。
その「安土城に次ぐ」とは、坂本城を「褒めすぎ」な気もします。
城全体が「水城」「湖上の城」というよりも、「水と一体となった」ような優美なイメージの坂本城。
坂本城が、あくまで「イメージ」であることに留意する必要があります。
対して、長浜城は再建されたとは言え、「実際に建っている」違いは大きいと思います。
城づくりは、なかなかイメージ通りには、いかないでしょう。
光秀の坂本城イメージは、そのことを考えて少し割り引いてみる必要があるでしょう。
秀吉の長浜城は、坂本城同様に「湖畔に突き出していた」という説もあります。


これは、「琵琶湖の水運ネットワーク」を非常に重視していた信長の意向を考える時、当然と思われます。
おそらく、長浜城や大溝城も「琵琶湖に突き出した構成・構造」となっていたでしょう。
おそらく、両城とも、優美さでは坂本城より劣りそうです。
明智と羽柴の二人の関係:「途中組」の二人


信長が長篠の合戦で武田家に痛撃を与えた頃の、秀吉と光秀はどのような立場であったのでしょうか。
本書では、柴田勝家や丹羽長秀とは違って、光秀・秀吉を「途中組」と位置付けています。
そして、両者とも異常な出世を遂げたので「ライバルであった」という位置付けです。
明智も羽柴も「従来からの織田家家臣ではない」共通点があります。
ところが、両者が「途中組」というのは違和感を感じます。



私は若き頃から、
信長様一筋!
実際、羽柴秀吉は「織田家譜代」でもなんでもない存在ですが、20歳前後から信長に仕えています。
対して、40歳前後(諸説あり)で、ようやく足利家と織田家に両属する立場となった明智光秀。



私は、朝倉家・足利家を
経て、織田家へ・・・
この二人を一括して「途中組」とまとめるのは、非常に無理がありそうです。
最終的に、光秀が本能寺の変を引き起こし、秀吉が光秀を討った歴史。


この歴史こそが、二人を「ライバル」的イメージに仕立て上げます。
光秀・秀吉中心に描かれがちな「織田家」および「織田軍団」。
実際には、柴田・丹羽・滝川一益・林秀貞(通勝)・佐久間信盛らの能力・重要性もまた、非常に大きかったのです。
次回は上記リンクです。