前回は「羽柴秀吉 5〜「桶狭間の戦い」の秀吉〜」の話でした。

今回は「光秀と秀吉」を、考えてみます。
「歴史人」に、同様の特集があります。

本書では、生い立ちから織田家が急成長してゆく1570年頃から、ほぼ毎年両者を独自の視点で採点して優劣をつけています。
なかなか面白い論考ですので、ぜひご一読下さい。
本書には、光秀の坂本城、秀吉の長浜城が出ています。

坂本城は、非常に優美なイメージです。
対する長浜城は、同時期で琵琶湖畔という似た立地ながら、割合普通な感じです。

これは坂本城があくまで「イメージ」であることに留意する必要があります。
対して、長浜城は再建されたとは言え、「実際に建っている」違いは大きいと思います。
城づくりは、なかなかイメージ通りには、いかないでしょう。
光秀の坂本城イメージは、そのことを考えて少し割り引いてみる必要があるでしょう。
秀吉の長浜城は、坂本城同様に「湖畔に突き出していた」という説もありますが、優美さでは坂本城より劣りそうです。
信長が長篠の合戦で武田家に痛撃を与えた頃の、秀吉と光秀はどのような立場であったのでしょうか。
本書では、柴田勝家や丹羽長秀とは違って、光秀・秀吉を「途中組」と位置付けています。
そして、両者とも異常な出世を遂げたので「ライバルであった」という位置付けです。
この後、光秀が本能寺の変を引き起こし、秀吉が光秀を討った歴史。

この歴史こそが、二人を「ライバル」的イメージに仕立て上げます。
光秀・秀吉中心に描かれる織田軍団。
実際には、柴田・滝川・林・佐久間らの能力と重要性もまた、非常に大きかったのです。