前回は「田舎の関東から登場した「新たな統治者の影」〜平将門と承平天慶の乱・京中心の日本の国家像と藤原家の隆盛〜」の話でした。
貴族による貴族のための政治:平将門と藤原純友の乱勃発と鎮圧
我こそは
新皇なり!
939年に関東で反乱を起こした平将門。
私が新たな関東の天皇となって、
関東周辺を治めるのだ!
ほぼ同時期に、瀬戸内海の海賊のボスであった藤原純友が挙兵しました。
当時は、完全に京中心の世界であり、瀬戸内海の方が関東よりも「遥かに都会」だった時代です。
平安時代の内裏・御所は、現在の京都御所の位置と「場所が異なる」説が有力です。
いずれにしても、貴族政治が完成度を増した平安時代において、天皇と貴族が政治を行っていました。
平将門・藤原純友の二名による大反乱は「承平天慶の乱」と呼ばれています。
関東の平将門と
瀬戸内の海で藤原純友が反乱か・・・
「ほぼ同時期」なので、将門と純友が共謀したようにも思えますが、「たまたま同時期」と考えます。
現在の感覚とは異なり、「遥か遠い」関東と瀬戸内海で連絡を取ることは非常に困難です。
このまま奴らが勢力を伸ばしたら、
京が挟撃されてしまうではないか・・・
特に瀬戸内の純友は水軍(海軍)があるから、
早く京付近に来そうだ・・・
「東から将門、西から純友」と挟撃されることになった、京都の貴族側は慌てふためきました。
と、とにかく、将門も
純友も倒すのだ!
関東で挙兵した平将門は、反乱の翌940年に戦死してしまいました。
「関東の天皇」と
なるはずだったが・・・
そのため、将門の反乱は、わずか2ヶ月で鎮圧されました。
ついで藤原純友は捕まった後に獄中死することになり、なんとか反乱を鎮圧した律令政治側の貴族たち。
武士の反乱鎮圧に成功した、貴族たちによる摂関政治は隆盛を極めて行きました。
とにかく我が貴族、そして
藤原氏が全てを握るのだ!
藤原道長が登場して、「貴族による貴族のための政治」が続きました。
ある意味では、反乱に失敗した将門と純友によって「貴族政治は強化された」とも言えます。
平清盛が目論んだ「新たな国家像」:保元平治の乱と平氏の台頭
承平天慶の乱の後は、比較的平穏な時代が続きましたが、藤原氏や摂関家で内紛が続きました。
いわば、内輪揉めを起こした貴族たちの「力の根源」は「武士による武力」でした。
相手を倒すためには、
権力だけではダメだ・・・
権力の背景となるのは
武力しかない!
貴族たち、中でも「藤原氏の内輪揉め」が朝廷内部で深刻な亀裂を生み出しました。
そして、ついに、天皇と上皇が超険悪な仲となるに至りました。
後白河天皇は、
弟の分際で生意気すぎる!
崇徳上皇こそ、
問題がある!
共に鳥羽上皇の息子であり、実の兄弟であった崇徳上皇と後白河天皇が内部抗争を始めました。
ここに登場したのが、「源氏と平氏」でした。
私が後白河天皇側について、
武士を指揮しましょう!
おお、清盛よ!
期待しておるぞ!
平家の棟梁格であった平清盛が乗り込み、源氏は敗北しました。
我が源氏が
敗北した・・・
そして、保元・平治の乱で敗れたのが源頼朝の父であった源義家でした。
これによって、一気に凋落した源氏は表舞台から消えました。
そして、凋落した源氏とは対照的に、一気に勢力を伸ばしたのが平氏でした。
藤原氏に続いて、栄華を極めることになったのが平家棟梁の太政大臣 平清盛でした。
清盛にとっては、
我が国の中心の
京を押さえたのは、我が平家・・・
我が平家こそが
国家の中枢を把握すべきなのだ!
「平氏中心の時代」を語りながらも、勿論「京中心の発想」でありました。
平家にあらずんば、
人にあらず・・・
とにかく「平家ファースト」「平家中心主義」を貫き通した清盛。
我が平家が、国家の主要ポストを
独占するのだ!
この「平家中心主義」が高じて、
私が考える国家像は、
今の「京中心」ではない・・・
私がベストと思うところに
京を移すべきだ・・・
平安時代以降の未来永劫続くと思われていたであろう「京中心の国家像」。
この「京中心の国家像」に対して、栄華極めた平清盛は「己の描く国家像」を考えていました。
この平清盛の登場こそが、のちに江戸・東京への「都の移転」にもつながるでしょう。