田舎の関東から登場した「新たな統治者の影」〜平将門と承平天慶の乱・京中心の日本の国家像と藤原家の隆盛〜|江戸・東京の大発展3

前回は「「日本の中心の圏外」だった江戸・東京〜京中心であった日本の国家像・江戸から東京へ・大久保利通と木戸孝允推進の「裏技=天皇動座」と奠都〜」の話でした。

目次

京中心の日本の国家像と藤原家の隆盛

New Historical Voyage
太政大臣 藤原道長(Wikipedia)

現代は、「東京中心の国家像」であり「東京一極集中」とも言える日本。

少なくとも戦国期までは、「京中心の国家像」でした。

そして、室町〜戦国期の時代において「日本」という国家像が「どこまであったのか」は議論があります。

新歴史紀行
京・山城中心の日本(新歴史紀行)

京・山城中心の日本において、九州方面は中国や大陸との交易・貿易で認識していたでしょう。

一方で、東北地方から北海道にかけては、少し、と言うより「かなり遠い」存在だったでしょう。

かつて栄華を極め、太政大臣などの朝廷の中心を占有した藤原氏にとっては、

藤原道長

この世をば、
わが世とぞ思ふ望月の・・・

と、「藤原中心の時代」を語りながらも、とにかく「京中心の発想」でありました。

藤原道長

京こそが、我らの国家の
全ての中心であり・・・

藤原道長

京を押さえている
我が藤原氏が国家の中心なのだ!

現代の「日本」と言う呼称の前には、「倭」「大和(大きな和)」などの呼称があった日本。

いつ頃から「日本という呼称・名称が定着したか」は諸説あります。

いずれにしても、この頃においては江戸(東京)を含む関東地方は「遠いエリア」でした。

そして、「京中心の発想」からすれば、江戸(東京)及び関東は、超田舎でした。

966年に摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男として生誕した藤原道長。

摂政・関白・太政大臣のそれぞれが、当時の律令政治における極官と言える存在でした。

「三つの極官を一人で兼ねる存在」の超有力者、というより「天皇に次ぐもの」の子どもが道長でした。

藤原道長

私の父は
摂政関白太政大臣!

一つ不思議なのは「長男が最重要」であった当時において、「五男である道長」が継いだ点です。

これには様々な説がありますが、よほど道長に「有力な何か」があったのでしょう。

そして、1018年に道長の三女・威子を当時の天皇・後一条天皇に嫁がせた道長。

藤原道長

天皇が
我が娘婿なのだ!

天皇の外戚となって、さらに強権を持つに至り、「藤原の時代」を極めました。

田舎の関東から登場した「新たな統治者の影」:平将門と承平天慶の乱

New Historical Voyage
平将門(Wikipedia)

この「藤原道長による藤原氏の隆盛」は、まさに日本の「貴族政治」の典型例でした。

道長が隆盛を極めて1018年頃の170年ほど後には、源氏による政権が樹立して、貴族は衰退します。

まだまだ貴族が「京中心」の日本の国家の中枢を握っていたのが、1100年頃までの日本でした。

一方で、後に「源氏政権=武家政権」へと移行する影が、当時の田舎・関東から勃発しました。

藤原家の後に、栄華を極める平氏一門の平将門。

平将門

我こそは
新皇なり!

939年に、関東で反乱を起こした平将門。

ちょうど、呼応するように藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて、

おうよ!
貴族などぶち倒せ!

反乱を起こし、後に「承平天慶の乱」と呼ばれる大反乱が勃発しました。

いずれも、いかにも名門の姓を持ちますが、当時は平氏も藤原氏も諸国に多数いました。

「正統派も反乱派も藤原」であったこともまた、当時いかに藤原姓が多かったことを示しています。

この承平天慶の乱が勃発した939年は、藤原道長が栄華を極める1018年の約80年前のこと。

この時は、

平将門と
藤原純友を討ち取るのだ!

将門も純友も、比較的短期間で鎮圧されてしまいました。

関東で挙兵した平将門は反乱の翌940年に戦死し、わずか2ヶ月で鎮圧されました。

瀬戸内海で挙兵した藤原純友は、941年に伊予で捕まり獄中死(諸説あり)し、2年ほどで鎮圧されました。

一般的には平将門の方が有名で、強力なように思えますが、藤原純友の方が善戦しました。

この藤原純友の善戦の理由は、海賊衆を率いていたため、中央軍の対応が遅れたことがあるでしょう。

さらに「瀬戸内海から畿内をついた」純友軍によって、瀬戸内海からすぐの京が混乱したと思われます。

平将門

我が武士の時代が
来ると思ったが・・・

平将門

む、
無念だ・・・

たった二ヶ月で鎮圧した「中央政府側=律令政治側」は、

関東の武士の勃興を
押さえたぞ!

武士が「新皇」など
とんでもないな!

我が国は「天皇中心」であり、
天皇を押さえて政治を司るのは、我ら貴族!

この「平将門の乱」は、律令政治=貴族の圧勝に終わりました。

ところが、この「平将門の乱」は「新たな統治者の影」を、我が国にもたらしました。

そして、この「新たな統治者の影」が関東から生まれた事実。

これこそが、後に「江戸=東京」が我が国の中心となることを暗示していたのでしょう。

New Historical Voyage

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

目次