前回は「「日本の中心の圏外」だった江戸・東京〜京中心であった日本の国家像・江戸から東京へ・大久保利通と木戸孝允推進の「裏技=天皇動座」と奠都〜」の話でした。
京中心の日本の国家像と藤原家の隆盛
現代は、「東京中心の国家像」であり「東京一極集中」とも言える日本。
少なくとも戦国期までは、「京中心の国家像」でした。
そして、室町〜戦国期の時代において「日本」という国家像が「どこまであったのか」は議論があります。
京・山城中心の日本において、九州方面は中国や大陸との交易・貿易で認識していたでしょう。
一方で、東北地方から北海道にかけては、少し、と言うより「かなり遠い」存在だったでしょう。
かつて栄華を極め、太政大臣などの朝廷の中心を占有した藤原氏にとっては、
この世をば、
わが世とぞ思ふ望月の・・・
と、「藤原中心の時代」を語りながらも、とにかく「京中心の発想」でありました。
京こそが、我らの国家の
全ての中心であり・・・
京を押さえている
我が藤原氏が国家の中心なのだ!
現代の「日本」と言う呼称の前には、「倭」「大和(大きな和)」などの呼称があった日本。
いつ頃から「日本という呼称・名称が定着したか」は諸説あります。
いずれにしても、この頃においては江戸(東京)を含む関東地方は「遠いエリア」でした。
そして、「京中心の発想」からすれば、江戸(東京)及び関東は、超田舎でした。
966年に摂政関白太政大臣・藤原兼家の五男として生誕した藤原道長。
摂政・関白・太政大臣のそれぞれが、当時の律令政治における極官と言える存在でした。
「三つの極官を一人で兼ねる存在」の超有力者、というより「天皇に次ぐもの」の子どもが道長でした。
私の父は
摂政関白太政大臣!
一つ不思議なのは「長男が最重要」であった当時において、「五男である道長」が継いだ点です。
これには様々な説がありますが、よほど道長に「有力な何か」があったのでしょう。
そして、1018年に道長の三女・威子を当時の天皇・後一条天皇に嫁がせた道長。
天皇が
我が娘婿なのだ!
天皇の外戚となって、さらに強権を持つに至り、「藤原の時代」を極めました。
田舎の関東から登場した「新たな統治者の影」:平将門と承平天慶の乱
この「藤原道長による藤原氏の隆盛」は、まさに日本の「貴族政治」の典型例でした。
道長が隆盛を極めて1018年頃の170年ほど後には、源氏による政権が樹立して、貴族は衰退します。
まだまだ貴族が「京中心」の日本の国家の中枢を握っていたのが、1100年頃までの日本でした。
一方で、後に「源氏政権=武家政権」へと移行する影が、当時の田舎・関東から勃発しました。
藤原家の後に、栄華を極める平氏一門の平将門。
我こそは
新皇なり!
939年に、関東で反乱を起こした平将門。
ちょうど、呼応するように藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて、
おうよ!
貴族などぶち倒せ!
反乱を起こし、後に「承平天慶の乱」と呼ばれる大反乱が勃発しました。
いずれも、いかにも名門の姓を持ちますが、当時は平氏も藤原氏も諸国に多数いました。
「正統派も反乱派も藤原」であったこともまた、当時いかに藤原姓が多かったことを示しています。
この承平天慶の乱が勃発した939年は、藤原道長が栄華を極める1018年の約80年前のこと。
この時は、
平将門と
藤原純友を討ち取るのだ!
将門も純友も、比較的短期間で鎮圧されてしまいました。
関東で挙兵した平将門は反乱の翌940年に戦死し、わずか2ヶ月で鎮圧されました。
瀬戸内海で挙兵した藤原純友は、941年に伊予で捕まり獄中死(諸説あり)し、2年ほどで鎮圧されました。
一般的には平将門の方が有名で、強力なように思えますが、藤原純友の方が善戦しました。
この藤原純友の善戦の理由は、海賊衆を率いていたため、中央軍の対応が遅れたことがあるでしょう。
さらに「瀬戸内海から畿内をついた」純友軍によって、瀬戸内海からすぐの京が混乱したと思われます。
我が武士の時代が
来ると思ったが・・・
む、
無念だ・・・
たった二ヶ月で鎮圧した「中央政府側=律令政治側」は、
関東の武士の勃興を
押さえたぞ!
武士が「新皇」など
とんでもないな!
我が国は「天皇中心」であり、
天皇を押さえて政治を司るのは、我ら貴族!
この「平将門の乱」は、律令政治=貴族の圧勝に終わりました。
ところが、この「平将門の乱」は「新たな統治者の影」を、我が国にもたらしました。
そして、この「新たな統治者の影」が関東から生まれた事実。
これこそが、後に「江戸=東京」が我が国の中心となることを暗示していたのでしょう。