雄大な薩摩を象徴する屋久杉〜海を支配した島津家・屈強の島津家の精神が宿っている千年杉・豊臣秀吉と島津家を結んだ屋久杉・方広寺の由緒正しき高級建材〜|戦国・幕末維新・現代

前回は「薩摩の国と海〜広い外洋へ続く薩摩の海・錦江湾と薩摩・海外と国内・薩摩の広大な領域・戦国期から幕末の薩摩と外国〜」の話でした。

目次

雄大な薩摩を象徴する屋久杉

錦江湾(新歴史紀行)

鹿児島中心部から指宿へゆき、雄大な錦江湾を眺めました。

それほど大きな湾ではなく、すぐそこには「また薩摩の地が広がっていた」薩摩藩。

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薩摩と海(新歴史紀行)

薩摩藩と海が密接な関係を持つのは、地理的に当然の帰結でした。

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薩摩と海(新歴史紀行)

そして、海へ海へとその薩摩領土(領海)を広げていった薩摩・島津家。

感覚的には、島津家の中心は薩摩から琉球に至る広大な「領土+領海」の中央あたりだったでしょう。

指宿から船で種子島に渡り、その後、屋久島に至りました。

今回は屋久島に関わる話をご紹介します。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

「屋久島といえば屋久杉」ということで、まずは豊富な屋久杉を楽しめる屋久杉ランドへ向かいました。

小さな島の割には、非常に高低差がある島です。

屋久杉ランドでは、多数の大きな屋久杉を眺めながら散策できます。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

目の前に雄大な、歴史ある屋久杉があり、屋久杉を触れるをその歴史を感じます。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

とにかく屋久杉が多数生い茂っていて、川も流れている雄大な自然の中を散策してゆきます。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

屋久島の屋久杉の骨太で荘厳な雰囲気は、島津家の雰囲気を思わせます。

戦国大名 島津義弘(図説・戦国武将118 学研)

戦国時代から幕末維新、そして明治から現代に至るまで強い影響力を持ってきた島津家。

その島津家の猛烈なパワーを感じる屋久杉です。

海を支配した島津家:屈強の島津家の精神が宿っている千年杉

1586年頃の九州勢力図(歴史人2020年11月号 KKベストセラーズ)

戦国時代末期に、北へ北へ、とひたすら北進した島津家。

もうすぐ、我が島津が
九州ば統一するごわす!

九州統一目前で、豊臣秀吉となった羽柴秀吉が乗り込んできました。

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天下人・関白 豊臣秀吉(Wikipedia)

島津は、
薩摩・大隅に引っ込んでなさい!

冗談ではない
ごわす!

強大な豊臣軍と一戦交えて、一度は大打撃を与えるも、強大すぎた豊臣家。

やむを得ん
ごわす・・・

島津家は「九州ほぼ全土」を有していた領土を返還させられ、薩摩・大隅・日向に逼塞しました。

もともと、中国や朝鮮との海運が栄えていた坊津などの港を多数持っていた島津。

海の向こうは
無限に広がっているごわす・・・

秀吉と戦う以前から、本拠地・薩摩周辺の海を少しずつ侵略して支配していたのでしょう。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

有名な千年杉がありますが、「千年前」は豊臣秀吉も島津義弘・義久兄弟も登場していません。

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鎌倉幕府初代将軍:源頼朝(Wikipedia)

源頼朝も鎌倉幕府もまだ登場していない、今から千年前。

千年前の樹木が残っていることは屋久島以外でも残っている可能性がありますが、これだけ温存されているケースは稀です。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

千年杉の雄大な佇まいを見ていると、屈強の島津家の精神が宿っているかのように感じられます。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

仏陀杉という杉もあり、とにかく由緒正しく、荘厳な雰囲気の大自然が感じられる屋久杉ランド。

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

その地形に合わせて、木製の歩道が整備されており、大いなる自然と歴史が感じられます。

豊臣秀吉と島津家を結んだ屋久杉:方広寺の由緒正しき高級建材

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屋久島の屋久杉(新歴史紀行)

現代、とても高名な屋久杉は、すでに豊臣秀吉のころに「頑丈で品格がある建材」として有名だったようです。

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本能寺の変(歴史道vol.13 朝日新聞出版)

本能寺の変ののち、不自然なほど急速な勢いで天下人への階段を駆け上がった秀吉。

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羽柴秀吉(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

宿敵であった柴田勝家を1583年に討滅し、急速な勢いで「信長の後継者」となりました。

勝家を叩き潰して、
その名前の一部の羽では仕方ない・・・

と考えた秀吉は、まずは信長が「平氏」を称したのを真似て、

私は
秀吉!

と名乗りますが、その後すぐに、

私は
藤原秀吉!

とコロコロ名前を変えてゆきます。

そして、少し後の1587年にはついに

やっぱり、独自の「豊臣」という
姓が良い!

「豊臣」という独自の姓を作り出すに至る秀吉。

この頃、

私が天下人であることを
名実ともに知らしめる必要がある・・・

それには、私が命じて
巨大な建築をつくるのが良い・・・

すでに、大坂城の築城を開始して、逐次完成しつつあった秀吉。

拠点は大坂ですが、なんといっても当時の日本の首都は京です。

京で、なにか由緒正しく
大きな建築を建てたい・・・

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戦国大名 松永久秀(Wikipedia)

ここで、このころ「神がかりの知恵を持っていた」秀吉は閃きました。

そうだ!
松永久秀が焼き討ちした東大寺を再建するのだ!

織田信長に対して二度背いた松永久秀ですが、元々は「秀吉の同僚」のような存在です。

そして、1586年に、もう少しで豊臣秀吉となる一歩手前の藤原秀吉は、

東大寺に代わる
方広寺を建立する!

大々的に宣伝しました。

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治部少輔・豊臣大名 石田三成(Wikipedia)

佐吉よ・・・
なにか、由緒正しく良い建材を集めるのだ!

ははっ!
早急に調査します!

そして、当時敵対しつつあった島津家に、「由緒正しき素晴らしい屋久杉」があることを掴んだ三成。

殿!島津の領土の屋久島に、
素晴らしい屋久杉が御座います!

よしっ!
早速島津に出させよ!

ははっ!
承知しました!

そして、豊臣秀吉となる前年とはいえすでに絶大な力を有していた秀吉は、

島津家よ!
東大寺に代わる方広寺を建立するから・・・

屋久島にある
屋久杉を出しなさい!

この時は、イケイケドンドンの島津家は拒否しました。

なにを勝手なことを・・・
屋久杉は島津の宝!

そして、翌1587年に藤原秀吉から豊臣秀吉となった豊臣軍に敗北した島津家。

今度こそ、
方広寺のために屋久杉を出しなさい!

分かりました・・・

すでに敗北した身であり、「東大寺に代わる方広寺」建築のためならば、拒否のしようがない島津家。

豊臣秀吉に対して、「屋久杉の供出」を承諾しました。

豊臣軍に大惨敗した島津家でしたが、本領は安堵され、代官がやってきました。

豊臣家臣、
石田三成です・・・

島津家の
島津義弘ごわす!

そして、島津家にやってきた「豊臣筆頭」とも言える三成。

島津殿、ここは
このようにすると経済が回りますよ・・・

懇切丁寧に「最先端の経済」を教えた三成に対して、

これは、大変
有難か!

島津義弘は感謝して、宿老の伊集院忠棟は石田三成と極めて親しい関係になりました。

この時の関係が、関ヶ原の戦いで「島津家が嫌々ながら一時的に西軍についた」理由の一つと言われます。

最終的に、方広寺建築に屋久杉が供出されたかは不明です。

当時の大和(奈良)、紀伊(和歌山)などにも大量の良い杉材などの木材があったことを考えると、それで足りたでしょう。

ただ、「由緒正しいこと」に異常に執着していた豊臣秀吉のこと。

金はいくらかかっても良いから、
屋久杉を京都へ持ってこい!

と、このように命令したようにも思います。

真相は不明ですが、超一流の杉材などの建材を使って建築されたと思われる方広寺。

後に有名な「方広寺鐘銘事件」に繋がってゆきます。

この戦国時代から徳川時代への流れにおいて、極めて大きな存在を持った方広寺。

質実剛健で由緒正しい島津家を具現化したかのような屋久杉を見に、ぜひ屋久島へ。

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