前回は「抜群の優等生だった山口多聞〜「多聞」の名前の由来・「忠臣の鑑」の軍神楠木正成・開成中学から海軍兵学校へ・軍人育成を最優先した明治新政府〜」の話でした。

第一次世界大戦と大日本帝国:日英同盟と艦隊地中海派遣

1892年に生まれ、開成中学を抜群の成績で卒業した山口。
そして、江田島の海軍兵学校40期に21位/150人で入学しました。

憧れの海軍兵学校に
入学したぞ!
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 吉良 俊一 | 航空 | 第十二連合航空隊司令官 |
40 | 福留 繁 | 大砲 | 軍令部第一部長 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
後に、海兵40期は「華の40期」と呼ばれるほど、多数の将星を輩出しました。
真珠湾奇襲攻撃における、40期生の活躍の話を上記リンクでご紹介してます。



21位の成績で
海兵合格だ!
後に海兵と海大をともに次席卒業し、「優等生の模範」とも言われる山口多聞。



私は9位で
海兵合格だ!
後に、共に機動部隊の中心的役割を果たす宇垣は、入学の時点では山口よりも上の成績でした。
ただし、成績はあくまで「その時点の合算した点数」に過ぎないので、「9位と21位は同等」とも言えます。



とにかく、一生懸命
勉強するのだ!
特に「ガリ勉」と言うわけではなく、「学ぶことが好き」だった山口少年。
1912年に、海兵を次席(2位)で卒業し、将来を嘱望される立場となりました。



砲術学校と
水雷学校で学ぶのだ!
この頃、主に海兵卒業生は、半年交代で水雷学校普通科と砲術学校普通科を学びました。



私は、将来、
どの方向で海軍にお役に立とうか・・・
1912年頃は航空の概念がまだ極めて弱く、「砲術か水雷か」の時代でした。
1914年には、第一次世界大戦が勃発し、大日本帝国は連合国側として参加しました。



同盟中なので、
Japanese Empireにも連合国側で参加を!



了解です!
遠い欧州の地ですが、軍艦を派遣しましょう!



よしっ!
俺も世界大戦に参戦だ!
そして、まだ20代の若き山口青年は、地中海に向かい、第一次世界大戦を経験しました。
第一次世界大戦には「間接的関与」に近い立場だった、当時の大日本帝国。
ここで、山口は「大戦争・大戦の現場」という貴重な経験を得ました。
空母航空隊に巨大な未来を見出した山口多聞:世界初の空母鳳翔


第一次世界大戦は1918年に終了し、この頃から「空母と航空機」の概念が具体化しました。
そして、世界に先駆けて大日本帝国と大英帝国が空母を建造しました。
「世界初」は諸説ありますが、1922年に大日本帝国が「世界初の空母」を生み出しました。
この頃、多くの船において「空母への改修」が計画され、実行されました。
それに対して、鳳翔は「最初から空母として設計」した空母でした。



空母か・・・
航空機を乗せて、航空機で攻撃する・・・
それまでに海軍において存在した艦種は、戦艦・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などでした。
これらは、全く異なる艦種ですが、「大砲か魚雷で敵を倒す」点では共通点がありました。



空母は、自らが攻撃するのではなく、
航空機による魚雷か爆弾で叩く・・・
対して、空母は、それまでの艦船とは全く異なる艦種でした。



つまり、味方空母からは
「見えない」位置の敵空母を叩くこともある・・・
戦艦・巡洋艦・駆逐艦・潜水艦は「見える敵」と戦うのに対して、「見えない敵」と戦う空母。



航空機に
敵艦隊を沈められるのか?
当初から、「航空機による敵艦隊撃沈の可否」は議論となっていました。
ちょうどこの頃、米国駐在武官としての役割を果たすために、米国に向かった山口。



空母は、巨大な
未来を持っている・・・
頭脳明晰であった山口は、空母航空隊に巨大な未来を感じていました。
ちょうど、空母鳳翔が完成したのは、山口青年が海兵を卒業して、ちょうど10年後。
つまり、「海兵10期下の若者」たちに、対して、主に空母航空隊が期待されていました。


後に、連合艦隊第一航空参謀となり、「航空の中心人物」となる源田実は52期卒業です。


空有航空隊の攻撃隊隊長として、勇名を馳せることになる淵田美津雄も52期です。



空母航空隊は、
若者たちに任せても良いが・・・
まだ30代で「若者」だった山口多聞は、ここで、空母航空隊の指揮官を目指すことを決めました。



私が空母航空艦隊の指揮官となり、
空母を指揮したい!



航空隊の指揮は
後進に任せよう!



空母の艦長か司令官となって、
空有を指揮してみせる!
この頃、空母航空艦隊・戦隊の司令官・艦長を目指すことを胸に決めた山口多聞。
将来の第二航空戦隊司令官・山口多聞の原型が出来つつありました。