「桶狭間の大失態」と今川義元の能力〜桶狭間の戦いの真相・実力勝負の戦国期における将軍と権威・強く残存していた守護の権威〜|今川義元1・出身・出自・エピソード

前回は「織田信長の実像と戦国の覇王が創り出そうとした未来〜信長が考えていた織田家の未来・第六天魔王の視線・武田討滅戦・万全期す信長・天下統一後の「国のヴィジョン」〜」の話でした。

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戦国大名 今川義元(Wikipedia)
目次

「桶狭間の大失態」と今川義元の能力:桶狭間の戦いの真相

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1552-55年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

今回は、今川義元を考えてみます。

戦国大名の中でも、今川義元に対する評価は、かなり浮き沈みがあります。

筆者が中学生だった1990年前半頃は、概ね「今川義元=愚将」の評価が固定していたと考えます。

その後、「坊ちゃん大名」だったとは言え、駿遠三・三カ国の太守であった今川義元に対して、

歴史家A

今川義元は、
一定以上の政治力を有していたのでは・・・

少なくとも「一定以上の政治力を持っていた」という評価が高まり、筆者も同意見です。

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左上から時計回りに、戦国大名 武田信玄、織田信長、毛利元就、上杉謙信(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研、Wikipedia)

政治能力・軍事能力・知謀力トップの信長、信玄、謙信、元就らと比較すると、どうしても霞む義元。

そもそも、「愚かな大名筆頭」と言えば、朝倉義景が思い浮かびます。

筆者は、「愚将筆頭格」の義景もまた、一定以上の規模の国を治める「相応の政治力」を有していたと考えます。

朝倉義景に関する話を、上記リンクでご紹介しています。

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桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

今川義元の評価が圧倒的に低くなる場合、その根拠は勿論、「桶狭間の大失態」です。

三ヶ国を有し、尾張にも牙城を築いていた今川義元に対して、若者で尾張一カ国に満たない領土の信長。

今川義元

駿河を出陣して、
尾張へ侵攻する!

国の数で言えば、「三カ国vs一カ国」という圧倒的な差がついていながら、

今川義元

ま、まさか・・・
この義元が・・・

信長に「大敗北を喫した」ばかりではなく、「自身の首を取られる」という超大失態を演じた義元。

この「圧倒的に強かった」にもかかわらず、「小勢の織田家に致命的大敗北を喫してしまった」義元。

諸説ありますが、今川軍25,000人vs織田軍2000人という説もあり、「10倍以上の軍勢」だった今川軍。

それにも関わらず、「勝った気分で、のんびり酒盛りしていたら、大敗北」が通説となってきました。

この通説が正しければ、確かに今川義元は愚将となると考えます。

ただし、この「桶狭間の戦い」の流れは、真相は不明な点が多いです。

実力勝負の戦国期における将軍と権威:強く残存していた守護の権威

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1556-61年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

そして、駿遠三・三カ国の太守であった今川家の大敗北が、織田と徳川の時代の幕開けとなりました。

桶狭間の戦いでの、今川と織田の国力差である「三カ国vs一カ国」に関しては諸説あります。

「三カ国vs一カ国」に関しては、

歴史家B

太閤検地の結果、
尾張の石高は50万石を超える・・・

歴史家B

そして、駿遠三の三カ国で
合計70万石ほど・・・

歴史家B

だから、「三カ国vs一カ国」ではなく、
石高では、それほど大差なかったはずだ!

石高での比較では、「大差なかったはず」という意見もあります。

その上、小京都・駿河に対して、流通と商業が盛んだった尾張を持っていた信長。

商業力を加味すると、「織田家と今川家の国力にそれほど大きな差はなかった」意見もあります。

一方で、筆者は、尾張統一した信長といえども、家柄の問題から当時は「尾張未統一だった」と考えます。

守護・守護代・国衆(地侍)出身大名
守護武田家・大友家・島津家・今川家
守護代長尾家(上杉家)・朝倉家
国衆(地侍)三好家・織田家・徳川家・毛利家・北条家・(豊臣家)
戦国期の大名の家柄:守護・守護代・国衆(地侍)

実力勝負の戦国時代と言えども、権威の力は強力でした。

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室町幕府第十三代将軍 足利義輝(Wikipedia)
足利義輝

三好や松永は、
何をしでかすか分からんと思っていたが・・・

足利義輝

まさか、この将軍・義輝を
白昼攻撃しに来るとは・・・

1565年、将軍・足利義輝が白昼殺される事態となった戦国時代。

桶狭間の戦いが、勃発した1560年の5年後のことでした。

足利義満で有名な室町幕府ですが、その権力の実態が不明瞭である面が強いです。

それでも、当時まだ「守護」が残存していた戦国期には、「守護の任命権」は将軍にありました。

1553年には、まだまだ若き長尾景虎が足利義輝に拝謁するために、わざわざ上洛しました。

長尾景虎(上杉謙信)

上洛して、足利家を
お守りするのだ!

守護代の家柄であった長尾家は、権威をつけるために奔走したのが実態でした。

この「守護と守護代の序列」で考えれば、今川と織田では「二ランク以上の差」があったのが現実でした。

今川義元

我が今川は
守護であり・・・

今川義元

足利家に嗣子がいない場合は、
「吉良か今川」なのだ・・・

この「吉良か今川」に関しては諸説ありますが、駿遠三・三カ国で「公式に太守(守護)」だった今川。

関東・甲信勢力図 1555年(歴史人 2020年11月号掲載図から一部抜粋)

1555年頃には、周囲に「守護の友達」である武田と「成り上がり」の北条が覇を競っていました。

今川義元

駿遠三・三カ国を
どう治めてゆくか・・・

そして、実力勝負の荒れた戦国時代において、若き頃から広大な領土を治めた義元。

今川領内においても、「叛逆の不穏な空気」があったはずです。

今川義元

この義元が、
駿遠三を押さえるのだ!

少なくとも、一定以上の政治力を有していたことは間違いないでしょう。

今川義元

我が今川は、
どう勢力を伸ばしてゆくか・・・

この「一段も二段も上」の立場から、今川義元は「今川の未来」を考えていたのでしょう。

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