逆ギレしてしまった井伊直弼〜「御三家の水戸弾圧」によって開かれた扉・安政の大獄の極大弾圧・「真面目の井伊」と「不良の岩倉」〜|井伊直弼17・人物像・エピソード

前回は「猛烈な逆風を浴びて意気消沈の井伊直弼〜辞任の申し出から開き直りへ・米国に翻弄され続けた徳川幕府・ペリーとハリスの卓越した外交術〜」の話でした。

井伊直弼(Wikipedia)
目次

逆ギレしてしまった井伊直弼:「真面目の井伊」と「不良の岩倉」

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左上からH.Parkes英国公使、Matthew Perry米提督、Townsend Harris駐日米大使、Leon Roches駐日フランス帝国公使(Wikipedia)

幕末に、一気に対外関係に真剣に向き合う必要性に迫られた日本。

様々な国から、条約や協定の締結を強く要請されましたが、最も強面だったのが米国でした。

Harris

早く新しい
条約締結しましょう!

1858年に日米通商修好条約を締結した際の、幕府トップは井伊直弼大老でした。

井伊直弼

とにかく、締結には
勅許を得るのだ・・・

「超強硬派」と言われる井伊直弼は、教養人で、「定められた手続きを踏む」タイプの人間でした。

いわば、比較的「真面目な人物」だったのが井伊直弼でした。

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公家 岩倉具視(Wikipedia)
岩倉具視

幕府の思惑など、
潰してしまえ!

ところが、「幕末維新の妖怪」岩倉具視らの画策によって、「勅許は不成立」に終わりました。

そもそも、岩倉具視は性格的には「真面目」とは到底表現できず、井伊直弼とは「水と油」でした。

つまり、「真面目の井伊」と「不良の岩倉」が対決したのが、この勅許問題でした。

さらに、井伊にとって「不運」というか「悪い傾向」が続きました。

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目付 岩瀬忠震(Wikipedia)
岩瀬忠震

井伊大老が仰った
「やむを得ない時」だったので・・・

岩瀬忠震

条約を
締結してしまいました・・・

ハリスとの条約交渉窓口だった、幕閣の切れ者・岩瀬忠震は、あっという間に調印してしまいました。

井伊直弼

・・・・・

そして、御三家や諸大名から「勅許なしの越権行為野郎」と罵られた井伊直弼。

一度は意気消沈した井伊は、気を取り直しましたが、勢い余って逆ギレしてしまいました。

井伊直弼

もう良い!
私は手続きを踏もうと努力した!

井伊直弼

それが分からずに、
一方的に私を非難することは・・・

井伊直弼

日本政府である徳川幕府に
叛逆する者だ!

一気に飛躍して「井伊に逆らう者=反逆者」と認定した井伊大老。

井伊直弼

水戸藩主・徳川斉昭は
隠居謹慎!

井伊直弼

俺に批判的な福井藩主・松平慶永も
同様!

徳川一門に対して、強硬手段に踏み切った井伊大老。

もはや怖いものはありませんでした。

「御三家の水戸弾圧」によって開かれた扉:安政の大獄の極大弾圧

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水戸藩主 徳川斉昭(Wikipedia)
徳川斉昭

この私が
隠居して、謹慎?

徳川斉昭

ははっ、何を
血迷っている・・・

徳川斉昭

私を
誰だと思っている?

徳川斉昭

御三家の
水戸藩主・徳川斉昭だぞ!

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水戸徳川家:家紋(Wikipedia)
徳川斉昭

この家紋が
目に入らぬのか!

水戸黄門の水戸徳川家の家紋は、徳川宗家の家紋と類似した「特別な家」でした。

そして、江戸時代、御三家の尾張・紀伊・水戸の徳川家は、諸大名とは別格でした。

石高(約)
尾張徳川62万石
紀伊徳川56万石
水戸徳川35万石

家格としては、尾張、紀伊、水戸の順でしたが、紀伊と水戸からは将軍を輩出し、尾張からはゼロでした。

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徳川幕府第八代将軍 徳川吉宗(Wikipedia)

紀伊(紀州)出身の将軍は、享保の改革で有名な第八代将軍 徳川吉宗です。

そして、「御三家末端」とは言え、「別格」であった水戸の徳川斉昭から見れば、

徳川斉昭

井伊が私を
処罰?

徳川斉昭

いかに、井伊が大老であろうと、
御三家を罰することなど出来るか!

徳川家の世界において、御三家は「皇族」のような存在でした。

アンタッチャブルな存在であったはずなのに、よりによって、水戸徳川家を罰した井伊大老。

井伊直弼

御三家であろうが、
なんであろうが、関係ない!

さらに、井伊直弼にとっては、「石高が同格」だった水戸徳川家。

井伊直弼

御三家だか、なんだか
知らんが・・・

井伊直弼

だいたい、水戸は我が彦根と
同じ35万石!

井伊直弼

そして、俺は
徳川幕府の最高権力者である大老!

井伊直弼

つまり、俺は将軍以外は
処罰することが出来るのだ!

この井伊直弼の発想は、ある意味で、筋が通っていました。

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左上から橋本左内、吉田松陰、月照、梅田雲浜(Wikipedia)
井伊直弼

そして、文句を言う
不逞な輩は打首だ!

そして、1858年〜1859年に、後世「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧を行った井伊大老。

吉田松陰

・・・・・

橋本左内

・・・・・

梅田雲浜

・・・・・

月照

・・・・・

徳川一門を潰し、一方的に民間の優れた志士達を殺害した、この事件は極大事件でした。

井伊直弼

これでよし!
我が政権運営が安定化するわ!

有能な志士たちを一方的に殺害した井伊大老は、「恐怖の大魔王」と化しました。

このことの是非は別として、井伊直弼は自身が気付かぬうちに、大変な事実を世間に公表してしまいました。

「徳川御三家と言えど、罰則の対象となりうる」という事実を。

そして、このことは歴史が回天し、井伊が新たな扉をガーンと開いてしまったことを意味していました。

「徳川幕府頂点の徳川的秩序は、もはや崩れた」ことを明かす「天変地異の扉」を。

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