前回は「正直に議会に極大バッドニュースを伝えたチャーチル首相〜大英帝国を襲った強烈な衝撃・パウンド軍令部長からの大悲報〜」の話でした。
緒戦で大勝利しすぎた大日本帝国海軍と連合艦隊
1941年12月8日(日本時間)の真珠湾奇襲攻撃で始まった、日米戦争(太平洋戦争)。
真珠湾奇襲攻撃は、「事前通告が遅れる」という大失態がありましたが、戦術的には大成功でした。
そして、大日本帝国の生命線であった「南方資源地帯獲得」の作戦も同時に行われました。
とにかく、超強力な
米海軍を少しでも叩かねば!
当時、山本長官の頭の中は、「対米戦で一杯だった」と考えます。
一方で、戦艦でも空母でも航空機でも「油がなければ、ただの鉄の塊」となってしまう現実がありました。
そして、当時も今も日本領(内地)では、「ほとんど原油を生産しない」という状況において、
マレーで、英東洋艦隊を
叩き潰すのだ!
そして、1941年12月10日、大英帝国の最新鋭戦艦であったプリンス・オブ・ウェールズを撃沈しました。
「海軍航空の育ての親」と言われる山本長官ですら、
プリンス・オブ・ウェールズは
大破だろうな・・・
このように思っていましたが、
プリンス・オブ・ウェールズも
撃沈可能です!
山本が「弟のように」または「子どものように」可愛がっていた三和参謀は、撃沈を主張していました。
ならば、プリンス・オブ・ウェールズ撃沈ならば、
ビールを10ダースやろう!
大破であったら、
ビール1ダース寄越せ!
そして、三和参謀と「プリンス・オブ・ウェールズ撃沈にビールを賭けた」山本長官。
結果は、「プリンス・オブ・ウェールズ撃沈」となり、三和参謀が賭けで勝利し、
長官!
プリンス・オブ・ウェールズ撃沈です!
おうっ!
ビール10ダースでも、50ダースでも持って行け!
山本長官は、「航空隊の絶大な威力」に大いに喜んでいました。
空母を逃したとはいえ、多数の戦艦を撃沈した真珠湾奇襲攻撃。
そして、「動いている最新鋭戦艦を撃沈した」マレー沖海戦。
立て続けに、異様なほどの大勝利を収めた大日本帝国海軍と連合艦隊は、
我が海軍に
敵なし、ですね!
うむ・・・
皆よくやってくれた・・・
この頃の連合艦隊は「大勝利」ではなく「大勝利しすぎた」状況でした。
「無用」と誤解された戦艦大和と武蔵の運命:航空隊の傘と戦艦
ちょうど、この頃に完成したのが、超巨大戦艦・大和でした。
早くから「航空隊の未来」を見据えていた山本長官は、
戦艦は
無用の長物となる・・・
「戦艦は無用」と考えていましたが、
やはり、戦艦が
雌雄を決する!
「大艦巨砲主義」であった大日本帝国は、戦艦大和と武蔵を建造しました。
とは言っても、当時は、まだまだ世界中の海軍が「大艦巨砲主義」でした。
この中、自ら「戦艦から空母へ」の時代の流れを示したのが大日本帝国海軍でした。
プリンス・オブ・ウェールズをあっさり撃沈した、航空隊の威力を前に、
やはり、もはや戦艦では
航空隊に勝てんな・・・
「戦艦は無用」との思いを強力にした山本長官。
そして、まもなく超巨大戦艦の二番艦である戦艦武蔵が完成する時期でした。
巨大戦艦の三番艦・信濃は
戦艦から空母へ変更しましょう・・・
うむ・・・
そうだな・・・
「大艦巨砲主義の権化」と言われていた宇垣参謀長もまた、
やはり、時代は航空隊が
主役だな・・・
このように「航空隊が主軸」であることを認めたのでした。
そして、真珠湾・マレー沖の直前の1941年11月に、三番艦・信濃信濃は空母へ変更になりました。
ここで、山本長官たちが「戦艦は無用」と考えたのは、一面では「勘違い」でありました。
実際、この4年ほど後に、米陸海軍が退去して大日本帝国を攻めた際は、戦艦が大活躍しました。
戦艦による砲撃で、沖縄や硫黄島などの陸上部隊や陸上基地は完膚なきまで叩かれたのでした。
海軍兵学校卒業期 | 名前 | 専門 | 役職 |
32 | 山本 五十六 | 航空 | 連合艦隊司令長官 |
36 | 南雲 忠一 | 水雷 | 第一航空艦隊司令長官 |
40 | 宇垣 纏 | 大砲 | 連合艦隊参謀長 |
40 | 大西 瀧治郎 | 航空 | 第十一航空艦隊参謀長 |
40 | 山口 多聞 | 航空 | 第二航空戦隊司令官 |
41 | 草鹿 龍之介 | 航空 | 第一航空艦隊参謀長 |
41 | 松永 貞市 | 航空 | 第22航空戦隊司令官 |
48 | 三和 義勇 | 航空 | 連合艦隊作戦参謀 |
確かに、時代は「戦艦から空母へ」でしたが、「航空隊の傘(護衛)」を持つ戦艦は、まだまだ有用でした。
ところが、
もはや戦艦は
いても仕方ない・・・
莫大な原油を消費するデメリットも
あるから、表立っては使えんな・・・
「もはや戦艦は海戦には使用しない」と考えたであろう山本長官。
この後、戦艦大和と戦艦武蔵は大きな出番がないまま、虚しく月日が流れてゆきました。
そして、いよいよ出番が来た時は、戦艦大和も武蔵も「航空隊の傘がない」状況で戦ったのでした。
この点で、「緒戦で大勝利しすぎた」連合艦隊は懸命になって、もっと研究すべきでした。
「戦艦の最も良い使用方法」を。
そして、「巨大戦艦三番艦・信濃の空母化」は懸命な判断でしたが、中途半端は否めませんでした。
そもそも、「戦艦の予定で着工」していた信濃は「無理やり空母へ」変更となりました。
そして、戦艦大和・戦艦武蔵・空母信濃などの巨大艦船は、
46サンチの巨砲で
米海軍を叩き潰したいのだが・・・
我らも最前線で
砲撃して、戦いたいのだが・・・
我が航空隊で、
米海軍に強力な攻撃を!
必ずしも「大役を果たす」ことには、「ならなかった」歴史となりました。
1941年12月の大勝利から、1942年初頭に、「戦艦の最も有効な活用方法」が連合艦隊で検討されていたら。
この「ifの歴史」があったならば、「太平洋の海戦の歴史」は大きく変わったでしょう。
次回は上記リンクです。