「武のシンボル」熊本城・熊本鎮台〜西郷隆盛を危険視した大村益次郎・明治政府六鎮台の一つの熊本鎮台・大きく変化した日本の重心と骨格〜|熊本城のきらめき1・熊本の歴史

前回は「大坂城と日本 3〜信長の野望と大坂〜」の話でした。

目次

明治政府六鎮台の一つの熊本鎮台

熊本城(新歴史紀行)

今回は熊本城の話です。

2016年の熊本地震で大きな被害を受けたのち、再度大規模な修復がなされました。

訪れたのは熊本地震の前ですが、無事修復・復旧が進んで、本当に良かったです。

姫路城と比較すると、少しこじんまりとした熊本城。

実は、江戸時代から「九州の要の城」であり続けました。

明治新政府が新たに軍を編成した際には、日本全国六鎮台の一つとなっています。

明治政府の六鎮台(師団)

東京鎮台:第一師団

仙台鎮台:第二師団

名古屋鎮台:第三師団

大阪鎮台:第四師団

広島鎮台:第五師団

熊本鎮台:第六師団

第一〜第五師団までの鎮台の位置は、日本の歴史と地形を考えると非常にわかりやすいです。

一方で、「なぜ、九州の鎮台が熊本なのか?」は、当時様々な意見があったと思われます。

実際、九州の鎮台は「小倉鎮台」が検討された時期もあったようです。

大きく変化した日本の重心と骨格

左上から時計回りに木戸孝允、岩倉具視、大久保利通、西郷隆盛(Wikipedia)

新しい国家となった明治維新政府にとっては、

西洋に
追いつくのだ!

西洋、特に欧州こそが目標でした。

それまでずっと「アジアの中」で生きてきた日本。

オランダ・朝鮮・中国などとは公式な交易があったものの、おおむね「鎖国状態」でした。

そして、幕末から米国・英国などから条約を求められ、世界への視野が急速に開かれました。

左上からH.Parkes英国公使、Matthew Perry米提督、Townsend Harris駐日米大使、Leon Roches駐日フランス帝国公使(Wikipedia)

世界への視野は、欧米の最新の科学技術・学問などの急速な輸入に繋がりました。

そのなか、軍事力の配置は非常に重要です。

京・山城が中心の日本列島(新歴史紀行)

270年近くの長きにわたって続いた徳川幕府・江戸時代。

京・大阪が政治・経済の中心であった日本の骨格が変わりました。

そして、江戸が政治・経済の中心となりました。

やはり、日本人にとっては、京・山城こそが精神的中心だったでしょう。

軍事力の基盤である鎮台の配置は、明治新政府内でも大きな議論があったと考えられます。

天皇陛下にも
江戸に御動座いただく!

明治天皇(Wikipedia)

うむ・・・
よかろう・・・

名実ともに、江戸が「日本の中心」となりました。

日本の精神的中心・故郷が京都であることは、変わらなかったでしょう。

そして、明治の時代になった、日本の中心・重心が大きく移動したのです。

「武のシンボル」熊本城・熊本鎮台:西郷隆盛を危険視した大村益次郎

江戸中心の日本列島(新歴史紀行)

廃藩置県によって、江戸時代の藩を消した新政府。

それでも、当時の人々にとっては、まだ旧藩の影響が根強く残っていました。

その中、新設された新たな軍事拠点である六つの鎮台。

明治新政府の六鎮台(新歴史紀行)

こうして、日本全国に対する配置を眺めてみると、バランスが良いように感じます。

鎮台の設置によって、まさに「日本の軍事の骨格」が整備されました。

兵部省大輔 大村益次郎(村田 蔵六)(国立国会図書館)

熊本に鎮台が置かれたのは、薩摩と西郷を敵視していた大村益次郎の影響も強いでしょう。

もともと、西郷が大嫌いで西郷を「危険視」していた大村は、

西郷には
要注意だ!

と考えていました。

そして、

九州の鎮台は
薩摩を押さえる位置の熊本だ!

と決定されたのでしょう。

熊本城(新歴史紀行)

さらに、なんと言っても「武のシンボル」である熊本城があったこと。

このことが、熊本鎮台設置の大きな理由であったのでしょう。

新歴史紀行

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