前回は「野心なき正義の武将・上杉謙信の実像〜足利将軍家を守る決意・「長子相続」の不文律を背に越後統一へ・実権なき新将軍の足利義輝〜」の話でした。
「叙任のお礼」で大軍勢引き連れて上洛
騒乱を極める京都に1553年、上洛した長尾景虎。
その前年に、景虎は従五位下・弾正少弼に叙任されています。
無官であった景虎にとって、「従五位下就任」は極めて重要なことでした。
ついに
弾正少弼になったぞ!
この「叙任のお礼」という名目で上洛した景虎。
叙任のお礼を
申し上げたい。
ただし、この上洛において、景虎は2,000名もの大軍勢を率いて、京都に乗り込んでいます。
2,000名もの大軍勢を引き連れて上洛すしたのは「尋常のこと」ではありません。
我が越後軍団
2,000名も一緒に来ました!
この2年前の1551年に、ようやく越後統一を成し遂げた景虎。
「越後統一」と言っても、揚北衆も長尾政景も「いつ裏切るか分からない」状況です。
まだ自国すら不安定な時期に、2,000名もの大軍勢を引き連れて上洛した景虎。
この思惑は、単に、
将軍家に叙任のお礼を
申し上げたい!
「お礼」だけでは成り立ちません。
そもそも、叙任されたお礼に金品を上納することはあっても、わざわざ上洛する必要はないです。
しかも、信長の尾張などに比較して「京から遠い越後」から、わざわざ上洛した景虎。
景虎の護衛部隊だけであれば、50名、多くても100名いれば十分です。
自国が不安定な中、2,000名もの大軍勢を引き連れて行くことは、大変な事態です。
この頃の長尾家の動員力は、せいぜい10,000名ほどでしょう。
その1/5もの軍勢を上洛させることは、越後が危険になる可能性があります。
「越後ファースト」であり、関東管領就任後も、
関東管領だが、
我が本拠地は越後なのだ!
越後守護代の家に生まれて、越後にこだわり続けた景虎。
その景虎が「越後を危険に晒してまでして、上洛した」ことには大いに意味があるはずです。
さらには、それだけの大軍勢を移動させる経費は、非常にかかります。
足利将軍家を
お守りする存在であることを、公にするのだ!
我が長尾家は越後守護代であり、
公式に認められた家柄なのだ!
このことを
ハッキリと世の中の方に分かってもらいたい!
これこそが、長尾景虎の思いだったでしょう。
上洛の本当の狙いと川中島の戦い
そして、当時の後奈良天皇に拝謁もし、権威固めをバッチリした景虎。
後奈良天皇に
拝謁したぞ!
そして、この景虎が上洛した1553年は、もう一つ重要な年です。
第N次 | 年 |
第一次 | 1553年 |
第二次 | 1555年 |
第三次 | 1557年 |
第四次 | 1561年 |
第五次 | 1564年 |
武田信玄と川中島で初めて戦ったのが、1553年です。
村上義清を
追っ払って、信濃統一だ!
この直前に、信濃で大きな勢力を張っていた村上義清が、武田晴信(信玄)に痛撃を受けて、越後に来ました。
景虎殿・・・
我らを助けて、晴信を倒してください・・・
村上義清が
越後に助けを求めてきた・・・
武田晴信を叩かなければ、
ならない!
晴信に反撃を与え、
村上たちの要望を叶えてやろう・・・
有難う御座います!
景虎殿しか頼る方はいません!
任せろ!
我が長尾は越後守護代の家柄・・・
そして、北信濃へ進出して、
長尾家の領土拡大をするのだ!
このために、まだ24歳と若い景虎は、
将軍の権威をもとに、
大義名分を!
と考えて、一種のデモンストレーションも兼ねて、大軍勢を率いた上洛を敢行しました。
これこそが「景虎の上洛の本当の狙い」だったのでした。
中世の権威の活用を目論んだ上杉謙信:中世の権威推戴のお手本
私は、
朽木谷に逃れている・・・
将軍義輝は京にはおらず、拝謁できませんでした。
当時の京は、三好長慶が実権を握っており、足利将軍家の影響力は地に堕ちていました。
さらに三好家の出頭人とされる松永久秀もまた、大変な影響力を持っていたのが、当時の京でした。
私は武家の頂点の
征夷大将軍だが・・・
我が足利将軍家の
居場所が京にはない・・・
このことは、事前に掴んでいたと思われる景虎。
将軍義輝様に
拝謁したかったが・・・
将軍の代わりに、
天皇に拝謁しよう・・・
これで、我が長尾家の
「正当性」が十分に示せるだろう・・・
「長尾家の正当性を誇示できる」と考えました。
この景虎の1553年の上洛が、具体的に「何月ごろであったか」は諸説あります。
9月頃という説が有力ですが、それは川中島の戦いがあった8月の直後です。
小競り合いとは言え、かなりの大軍が競り合った直後に、これだけ大規模な上洛は考えにくいでしょう。
おそらくは、「上洛は、8月の川中島の戦い前」と考えます。
いずれにしても、大義名分をしっかり得た景虎。
我が、長尾家は
バッチリ大義名分を得たのだ!
「もはや凋落していた」と言われる足利将軍家ですが、後に信長も推戴して京都へ入りました。
足利将軍家を
推戴して、大義名分を!
若き景虎もまた、中世の権威を十分に活用して、領土拡大を狙っていたのでした。
名前 | 生年 |
毛利元就 | 1497年 |
北条氏康 | 1515年 |
今川義元 | 1519年 |
武田信玄 | 1521年 |
長尾景虎(上杉謙信) | 1530年 |
織田信長 | 1534年 |
ある意味、「中世の権威推戴のお手本」を後輩・織田信長に見せつけたのが、1553年の景虎の上洛でした。
次回は上記リンクです。