武田信玄の悲願をかけた戦い〜凋落した今川家と武田家の大内紛・晴信と義信の対立・武田家の致命傷・義信の死と後継の不在・川中島の戦いと典厩信繁の戦死〜|武田信玄5・人物像・軍事能力

前回は「海を目標に南下を決断した武田信玄〜凋落した今川家への姿勢・激怒した北条氏康・甲相駿三国同盟崩壊・上杉と北条の越相同盟・敵の敵は味方〜」の話でした。

武田晴信(信玄)(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)
目次

凋落した今川家と武田家の大内紛:晴信と義信の対立

桶狭間の戦い(Wikipedia 歌川豊宣画)

桶狭間の戦いで凋落した超名門・今川家。

駿河守護の家柄の今川家に対して、甲斐守護の武田家。

そして、清和源氏の嫡流と言われる名門の武田家ですが、今川家は「格が違う」存在です。

場合によっては、足利将軍に代わって「将軍になりうる」存在であった今川家。

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戦国大名 今川義元(Wikipedia)

その当主であり、相応の能力を有していた今川義元。

その義元が、あっけなく織田信長に大敗北し、戦死しました。

今川義元

天下の今川家を率いる
私が、織田如きに・・・

「大敗北」のみならず、「当主・義元が討ち取られる」という戦国有数の「時代を変える合戦」となったのでした。

戦国大名 徳川家康(松平元康)(Wikipedia)

弱体化した今川の弱みにつけ込んだ松平元康は、

徳川家康

今川の呪縛から逃れ、
独立だ!

「義」から一字もらい偏諱の名前を持っていた元康は、

徳川家康

今日から、松平元康ではなく
徳川家康だ!

康」から康に変更して独立しました。

さらに、名前を先祖代々の松平から徳川へ変えた家康。

徳川家康

徳川家康となって、
俺も戦国の世に打って出るぞ!

猛烈な勢いで若き家康が、三河から乗り込んできました。

武田信玄

もはや今川家は
持たぬな・・・

武田信玄

ならば、我が武田が
今川の領土を頂こう!

老獪な晴信がこう考えたのは、ある意味では自然な流れでした。

武田家の致命傷:義信の死と後継の不在

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1562-68年頃の勢力図(歴史人 2020年11月号 学研)

ところが、義元の娘を妻にしていた長男・義信は、

武田義信

なぜ、
そんな非道を考えるのですか?

武田義信

ならば・・・
叛逆して父を葬るまで!

宿老の飯富虎昌と組んで、父・晴信を追い落とすことを目論みました。

さらに義信の気持ちは膨らみました。

武田義信

だいたい、父だって祖父・信虎を
追い出したではないか!

武田義信

ならば、今度は俺が父・晴信を追い出して、
俺が武田の当主に!

v
戦国大名 武田信虎(Wikipedia)
武田信虎

晴信め!
私を追い出すとは、もってのほか!

確かに、晴信が「父・信虎」を追い出したのは、公然の事実でした。

一方、晴信の時は、「宿老たちが全員同意の上」であった「父(当時)・信虎の追い出し」でありました。

ところが、義信の「父・晴信の追い出し」には、飯富虎昌の他には有力家臣が同意しませんでした。

そもそも、有力家臣では「飯富虎昌しか相談できなかった」義信。

これでは、家臣団の力のバランスを考えても「父・晴信の追い出し」が成功するはずがありませんでした。

武田信玄

そうか・・・
そう考えるなら、やむ得んな・・・

晴信は義信を、幽閉せざるを得ませんでした。

叛逆を試みた人物は、息子・血縁であっても「消さなければならない存在」だからです。

そして、最終的には、義信を切腹に追い込んだ晴信。

武田義信

なぜ・・・
私が悪いのですか?

武田信玄

・・・・・

病死説もありますが、ここでは「切腹説」を採用します。

その後の武田家の流れを考える時、義信を切腹に追い込んだのは、武田家にとって致命傷となりました。

義信を自刃に追い込まずに、武田晴信(信玄)の後を長男である義信が継いだならば。

その時、武田家の最後は、あのような凋落にはならなかったでしょう。

信玄の悲願をかけた戦い:川中島の戦いと典厩信繁の戦死

武田晴信弟・武田家重臣 武田信繁(Wikipedia)

そして、第四次川中島の戦いで戦死した典厩信繁が「義信事件」のこの時存命だったら。

典厩信繁は、命を張ってでも義信を守ったでしょう。

武田信玄(架空)

義信、
死ね!

武田信繁(架空)

兄者、義信がいなくなったら、
誰が武田を継ぐのです?

武田信繁(架空)

兄者の次男、三男は残念ながら
戦国の家を継げる状況にありません!

武田信玄(架空)

四郎勝頼が
おるではないか!

武田信繁(架空)

四郎は諏訪家に
行った身!

武田信繁(架空)

義信をなくしては、
武田は亡国の道ですぞ!

武田信繁(架空)

義信に死を言い渡すなら、
私も共に死にます!

武田信玄(架空)

・・・・・

信繁と義信二人がタッグを組んだら、家中統制上、流石の晴信も手の出しようがなかったでしょう。

ところが、この肝心の典厩信繁は、第四次川中島の戦いで戦死してしまいました。

そもそも、出陣して相手と総力戦を行う以上、晴信とて命の保証はなかったはずです。

戦の際に本陣が安全であっても暗殺の危険もあります。

その危険な地に、無二の腹心である弟の信繁まで出陣させたのは、晴信の大失敗でした。

武田家家臣:山本勘助(歴史群像シリーズ 図説・戦国武将118 学研)

第四次川中島では、山本勘助・諸角豊後守など多くの有力武将が戦死しています。

武田家にとって「致命傷」となる事態を招く可能性があった「川中島の戦い」。

なぜ、晴信は大きな犠牲を払う可能性があったのに、何度も川中島に侵攻したのでしょうか。

関東・甲信勢力図 1555年頃(歴史人 2020年11月号掲載図から一部抜粋)

甲斐国内で武田家内の紛争が続き、晴信の父信虎の代に、ようやく晴信の属する武田家で固めた甲斐。

そして、晴信は他国侵攻を目論みます。

「東に北条・南に今川」という状況の中、諸勢力乱立の信濃。

そして、領土が広いこともあり、石高20万石程度の甲斐に比べて倍の40万石をもつ信濃。

武田信玄

信濃奪取こそ、
武田家の生きる道!

隣国信濃に、晴信は目をつけます。

晴信にとって、最初に他国へ侵攻した侵攻先だった信濃。

諸説ありますが、

武田信玄

とにかく信濃を固め、
武田家、そして私の武威を示したい!

「とにかく信濃奪取」を目指した晴信。

「信濃の全土制圧」は晴信の悲願だったのです。

次回は上記リンクです。

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